suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

周防正行

私の視点
裁判官の仕事 冤罪防ぐ最後の砦だ
周防 正行(すお まさゆき)映画監督

 11年ぶりに撮った映画「それでもボクはやってない」が20日から全国で公開されている。テーマは「刑事裁判」。
 この作品をつくるきっかけとなったのは、02年12月に、たまたま読んだ朝日新聞の記事だった。痴漢事件の一審で有罪判決を受けた元会社員の被告人が、二審の東京高裁で逆転無罪になったという内容だった。逮捕され、会社を辞めざるをえなくなり、それでも2年間、無罪を訴え続けた男性と彼を支え続けた妻、大学時代の友人たちの闘いに興味を持ち、取材を始めた。
 さらに、この4年間、痴漢事件に限らず、無罪を争っている事件を中心に20件以上の裁判に200回以上足を運んで傍聴し、当事者や支援者、司法関係者に取材を続けてきた。その過程でまず驚いたのは「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が守られていないことだった。

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 裁判は本来、検察側の有罪立証に対して、弁護側が合理的な疑問を差し挟むことができれば無罪なのだ。ところが、実際は捜査権のない弁護側が無実の証明をしないと無罪を勝ち取るこは難しい。
 取材のきっかけとなった痴漢事件の裁判でも、被告人と支援者、弁護人が電車内の再現ビデオなどをつくって法廷に提出するなどし、被告人には犯行が不可能だったことや、被害者が犯人を勘違いした可能性を指摘した。本来、こうした検証作業は捜査する警察、検察側の仕事のはずだ。裁判官は検察側に対して「被害者証言の信用性を裏付ける証拠がない」ことで、その有罪立証が不十分であることを指摘すべきだが、それがなされていない。その結果、弁護側が無罪証明をしなければならない事態になっている。本来の司法の姿から外れているのだ。
 裁判を傍聴した限りでは、痴漢被害者の証言がほぼ一貫していれば、その信用性が認められ、それだけで被告人の有罪が決まってしまう。被告人の言い分はほとんど考慮されない。有罪判決ができる有罪立証のレベルが分かると、検察側はそれに沿って起訴をする。その結果、刑事事件で起訴された場合の有罪率は99.9%という驚くべき数字になっている。公判で十分に審理を尽くした「結果」なら問題はないが、もはやその高い有罪率は「前提」になっているように思えてならない。
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 こうした裁判を公平なものにする責任は裁判官にある。警察や検察は犯罪を捜査し容疑者を逮捕、起訴するのが仕事だ。ときには捜査ミスをしたり誤認逮捕をしたりすることもあるだろう。それを正すのが裁判官の仕事である。
 裁判官が「疑わしきは罰せず」という原則を貫きにくくなっている事情を考えると、その背景にあるのが刑事裁判での有罪率99.9%という数字ではないか。裁判官は無罪推定に立って公判をスタートするのが建前だ。だが、有罪率99.9%という現状では、なかなか無罪推定に立てないし、無実の確証がないかぎり無罪判決を出しにくい。また、元裁判官が書いた本を読むと、無罪判決を出す場合、不安なのが上級審で判決が覆らないかということだと述べている。裁判官は無実の確証が欲しいのである。検察側の有罪立証に対して、弁護側が合理的な疑問を差し挟んだだけでは無罪判決を出しにくい理由はここにある。
 しかし、最終的には無実の罪に問われた被告人を救うことができるのは裁判官だけだ。冤罪は、ほとんどの場合が警察官や検察官の思いこみや捜査ミス、時には弁護側の怠慢などで起こる。誤って有罪判決を受けた被告人の人生は取り返しがつかない。痴漢冤罪事件でも、会社を辞めざるをえなかったり、人間関係が壊れたり、本人や家族の精神的、経済的なダメージは計り知れない。
 映画の初めに「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」という法格言を掲げた。少なくとも、被告人が無罪を主張している裁判は、十分過ぎるほどに慎重な審理を尽くした上で判決を出してほしい。冤罪を防ぐ最後の砦となるのが裁判官なのだから。
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 56年生まれ。84年に監督デビュー。主な作品は「シコふんじゃった。」(92年)、「Shall we ダンス?」(96年)など。(朝日新聞2007年1月22日付8面=オピニオン面)
posted at 13:15:39 on 01/22/07 by suga - Category: Politics

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