suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

なぜ主語が隠されたのか

定義集 大江健三郎
【書き直された文章を書き直す】
なぜ主語が隠されたのか

 私は二年前から、裁判の被告です。生まれて初めてのことなので、一年目は書く仕事に関わる裁判の弁護士費用を、税の申告に必要経費として計上することを考えつきませんでした。最高裁まで行くはずだから、と私が暗然とすると、
 ──すべて終わって、本に書くまで生きていられるように、ガンバロウ! と家内は勇み立ちました。これも初めてのことです。
 訴えられているのは、私が37年前に出した『沖縄ノート』(岩波書店)で、渡嘉敷島の住民に日本軍が強いた「集団自決」について論評している部分です。この島では三百人以上が、守備隊から与えられた手榴弾で「自決」し、それで死にきれなかった者らを、乳幼児をふくめ、家族がオノ、カマ、あるいはその手で殺しました。

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 私は一九六五年に初めて沖縄を訪れたのですが、ずっとお付き合いの続いた牧港篤三氏から、沖縄線から五年かけての徹底的なインタヴューについて聞きました。氏が執筆者の一人である『鉄の暴風』を筆頭に、現地で手に入るすべての記録、歴史書、評論を読み、新川明氏ら、私と同年代の沖縄の知識人たちとの話し合いを重ねて、この本を書きました。
 私は渡嘉敷島を訪れていません。それはあの沖縄戦で、時には自分の手を血で汚しさえして、苦しみつつ生き延びた島の人たちに、直接聞きだす勇気がなかったからです。島に展開した第32軍は、「官軍民共生共死」を方針としました。私は「共生」を大切に考えますが、武力を前に押し出した権力が市民に「共死」を共生することをふくむ、「官軍民共生共死」の思想の恐ろしさ、それにしたがう国民を作った教育について思います。軍が島民との接点で、二発あたえる手榴弾の一発で敵を殺し、もう一発で「自決」するよう命令したことを、私は読み続けてきた資料、今度の裁判の原告、被告の準備資料をつうじて疑いません。
 原告側の主張は、「集団自決」が行われる直前、渡嘉敷島と(私は論評していませんが百三十人が「集団自決」した、同じく慶良間諸島の)座間味島の守備隊長は、ともにその命令を発していない、というものです。私は裁判の進行を見守りますが、両島で四百三十人を越える「集団自決」の死者があり、島民が集まって行動を起こす日、守備隊長二人が、これまで軍の命令したことは取り消す、「自決」をしてはならない、という新しい命令を出すこともなかった、という事実は動かせません。
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 さて、私は裁判の開始前からそれを危惧する根拠を持っていましたが、文部科学省が06年度教科書検定で、日本史教科書から、「集団自決」が「日本軍によって強制された」という記述を取り去らせました。
 この修正を報じるメディアで、私が政府の意図にあらためて直面したのは、文部科学省教科書課が次の説明をした、という「琉球新報」の記事によってです。《『沖縄ノート』(岩波書店)をめぐる裁判で「命令はなかった」とする原告の意見陳述を参考としたことについて「現時点で司法判断は下っていないが、当事者本人が公の場で証言しており、全く参考にしないというわけにはいかない」》
 私は、その司法判断が下る時点で、慶良間諸島での「集団自決」が日本軍の指示、強制によってなされたと確認されることを信じています。しかし高校生たちは永い日々、修正された教科書で学ぶのです。私はこの四月、高校生となり、また高校教師になる人たちに、文章を読みとることについて、こういう手紙を書きたいと思います、あなたは明年からの教科書の、次の点に注意してください。
 《「集団自決」においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった。》(東京書籍)
 《追いつめられて「集団自決」した人や……》(三省堂)
 《県民が日本軍の戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、日本軍により幼児を殺されたり、スパイ容疑などの理由で殺害されたりする事件が多発した。》(実教出版)
 《なかには手段自決に追い込まれた人々もいた。》(清水書院)
 これらの文例で、私が傍点を打ったところを、誰が・なにが、追いやり・追いつめ・追いこんだか考えてください。また、れるられるという助動詞を取り去って能動態にしてください。
 文章から主語を隠す(井上ひさしさんが指摘する通り)、そして受け身の文章にしてツジツマを合わす。そうすることで、文章の意味(とくにそれが明らかにする責任)をあいまいにする。
 それが日本語を使う私のおちいりやすい過ち、時には意識的にやられる確信犯のゴマカシです。あんたはこれらの文例を書き直すことで自分を鍛えてください。(作家)(2007年4月17日付朝日新聞13版20面=文化面)(ゴシック部分が原文の傍点部分)


 「定義集」という名称は、”PROPOS D'ALAIN”を当然意識しているのであろう。
posted at 14:44:20 on 04/17/07 by suga - Category: Politics

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