suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

アマチュア知識人の大切さ

定義集 大江健三郎

アマチュア知識人の大切さ 【小説家が大学で学びえたこと】

 ロシア・ポーランド文学の研究で世界的な友人から、東大教養学部の学生の、文学部へ進学する数がジリ貧なので、どのような志望を抱いてフランス文学科に入ったか話してもらいたい、と依頼がありました。

 私は、高校二年で読んだ本の著者の教室へ行こう、と希望しただけなので、強いていえば「知識人になるために」だった、という講演をしたのですが(記録は『すばる』八月号)、寄せられた質問に答える時間をなくしました。

     ※ ※ ※

 遅ればせながら、そのいくつかに答えます。1、あなたは老年ですが、どんな年金を受けていますか? という時事的なトピックのものから。

 同業者に文化功労者や芸術院会員の、また同級生に大学教授を勤め上げて、年金を受けている人はいますが、私はありません。長男の「心身障害者扶養年金」へ240回払い込みましたが、石原都政が制度を廃止したので私らの死後かれにも年金はありません。

 2、大学の理学部ほかでの専門研究を発展させて、その成果をあげ、政府・企業に「取り込まれる」立場にもなった専門家たちに、あんたは冷淡なようでしたが、この国に(世界にさえ)経済的発展をもたらしたのは、かれらではありませんか?

 そういう人たちにも、また自立して陽(ひ)の当たらぬ場所で力をつくしていられる専門家たちにも、私は敬意を持っています。国や大学が専門家の養成に資金を投ずるのにも賛成です。エドワード・サイードの意見ですが、最先端から地道なものまで、専門の研究と日々の実績を重ねた後、社会の現状と進み行きに憂慮する者として、それぞれの専門から踏み出して恊働する人たち(アマチュアとしての知識人)の大切さです。かれらは実力と勇気をそなえた批判者で、時に政府・企業とも対立します。

 私は、原爆被災者の医療に永年(ながねん)従事され、欧米でもよく知られている、核廃絶の理論家の老医師の方に、憲法「九条の会」の集まりで偶然お会いした感銘を忘れません。

 3、あなたが「知識人になるために」、モデルとした渡辺一夫教授から、学部でどのような教育を受け、それを卒業後どのように生かしてきたか、具体的に話してください。

 フランス文学科で先生の講義を聞いたことは、青春の最良の経験ですが、そこから専門研究に進む力は私にはありませんでした(きみの卒論に、Bをつけました、と先生は愉快そうにいわれたものです)。そこで私は小説を書くことにしましたが、学部で身についたフランス語、英語を読む習慣は続けることにし、先生から、長期にわたる読み方のヒントをもらいました。

 先生の最晩年の言葉を思い出します。一九七五年二月、渡辺一夫改訳のラブレー作『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』(岩波文庫)が完結しました。書店が内輪のお祝いの会を催し、出版への成り行きに少しお手伝いした私も呼んでもらいました。

 その会で誰もが気にかけていたことを、一番年少で軽薄かつおしゃべりの私が口にしてしまったのです。

 ――体調がおよろしくないのであれば、ずっと注意深くされてきたのですから、仕事を休まれて、病院で検査なさってはいかがでしょう?

 ――病院に行けば、致命的(ファタール)だ、といわれるでしょう。そこで参照する本のある家で、最後までやります。

 私がベソをかくふうだったので、先生は愉快そうな表情に戻られました。

 ――ラブレーはもとより、アンリ四世のような王侯も、ガブリエル・デストレのような寵姫(ちょうき)にも、その没年に自分が達してはじめて、わかってくることがありましたよ。きみには、私の没年まで生きてもらいたいな。

 その年の五月、先生はガブリエルの評伝『世間噺(ばなし)・後宮異聞』を完成して病院に入られ、そのまま亡くなりました。来年、私は先生の没年に達します。そこで、先生の全著作をゆっくり読みかえすために、小説ほかやっておきたい仕事を今年のうちに片付けます。そしてその読書に合わせて、ここ数年の宿題を果たすつもりです。

     ※ ※ ※

 三月のこの欄に、子供のための「できれば大きい本」を作りたい、と書きました。それを手紙として受け止めてくれたニュージャージー州の老婦人(装丁家として知られている人)から、薄い本を別々に出して行って、しまいに合本にする装本のプランが送られてきました。「できるだけ大きい本」にしよう、と……

 教育基本法が改訂された時、この勢いに乗って、政府・企業に「取り込まれる」タイプの専門家たちが(必ずしも教育の専門家でなくても)強い声を発し始めるはず、と思いました。そこで私は子供のための薄い本の一冊に、教育のアマチュアであることを自覚した上での、批判的な呼びかけを書き込もうと思っています。(作家)
(朝日新聞2007年06月19日付13版28面文化)
posted at 13:30:31 on 06/23/07 by suga - Category: Philosophy

コメントを追加

:

:

コメント

No comments yet

トラックバック

TrackBack URL