suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。
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人と言い交わせる喜び 語る人 元死刑囚 免田栄さん
人と言い交わせる喜び
語る人 元死刑囚 免田栄さん
死刑囚仲間、裁判官との握手支えに 良いことだけ思い出して生きたい
めんだ・さかえ 25年生まれ。48年の一家4人殺傷事件で逮捕され、51年に死刑確定。殺害方法が「自白」と違うとする新証拠などが採用され再審が始まり、83年無罪に。84年に結婚した妻と福岡県で暮らす
免田栄さん(82)は、25年前の7月、再審で無罪判決を得て“死刑台から生還”した。故郷にも戻れない57歳からの後半生で、日々の暮らしや人とのつながりを、どう築いてきたのか。(塩倉裕)
--生命の危機は逮捕される前にもあったのですね。45年の敗戦の時、19歳でした。
徴用されて長崎県の軍需工場にいました。米軍機の機銃掃射に体を貫かれ、仲間が次々に死んでいきました。自分も死ぬつもりでした。でも敗戦直後、日本軍の滑走路として攻撃された火花が散っていた場所で子どもたちが遊ぶのを見たとき、拝みたいような気持ちになりました。
ただ、将来の夢などは全くありませんでした。食べていけるのかどうかの状態でしたから。
--戦後間もない49年に突然逮捕され、51年には死刑が確定しました。
アリバイを主張したのに「自白」をしたとされ、「意味がわからない」と思いました。闇の中にいるようで。希望を持とうと試みては自分が絶望の中にいることを確認する、その繰り返しでした。
--状況が変わったのは?
拘置所で、房の食器口からチラシが放り込まれたのです。「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れじ」とありました。なぜ私の房に入ったのかわかりませんが、聖書の一節でした。半年以内には死刑執行されるだろうと聞かされていた私には、「死の陰の谷」という言葉が自分の状況を理解してくれているように思えたのです。
キリスト教を学び、たとえこの世で敗れてもせめて死後は真実の世界に行きたい、と考えるようになりました。
--多くの死刑囚の人々を見送られたそうですね。
ある朝、数人の足音が近づいてきて、だれかの房の前で止まる。看守たちに刑場へ連れて行かれる途中、仲間たちは私の房の食器口から手を入れ、別れの握手を求めました。中には私と同様、無実だと訴えている人もいました。「残念だ。あんただけは頑張ってくれ」と言ってくれた人もいました。彼らの言葉と握手は、再審を求めて闘う私の、強い支えとなりました。
--再審で無罪になったのは83年。別件逮捕から約34年が過ぎ、57歳になっていました。
自由な世界に行ける。それだけで「ありがとう」の言葉が出ました。ただ、無罪になっても「うまいことやったな」と言われ続けています。いまだに郷里(熊本県)では暮らせません。
--では今、免田さんにとって、ふるさととは?
この地球が仮の宿だ、と考えています。いずれ寿命が来たら神の国へ行ける、と。
--再審開始への道を開いた裁判官の西辻孝吉さんに、釈放後に会ったのですね。
亡くなる直前です。「お世話になりました」と言うと、両手で壊れるほど強く私の手を握り、涙を浮かべてうなずいてくれました。あの暖かい握手……。今の私の生きる励みです。
--逮捕されたのが23歳、釈放されてから25年になります。
次々と新しい継母が来て、誰一人として私をかわいがってくれない家庭でしたから、昔の23年はいつも暗い気持ちでした。釈放後の25年は、社会と解け合えなかったけれど、家内がよくしてくれて、何とか世のため人のために生きられます。
彼女は労組の事務員で、友達がたくさんいました。その人たちが私の釈放を喜んでくれた。私に、人とつながるきっかけをくれたのです。言葉に尽くせないほど感謝しています。
いま、時々講演に行くほかは畑仕事をしています。汗をかくとよく眠れますから。それに近所の人の畑を手入れしてあげたり、玄関前の掃除をしてあげたり、採ってきたタケノコをあげたりすると、喜んでもらえます。それがうれしいんです。
--免田さんにとって今、生きがいというのは何ですか。
自分の健康を大事にすること、同時に人が健康に生きることも大事に思うこと、でしょうか。「元気ですね」「はい、元気です」。人とそう言い交わせることがうれしい。その気持ちがあるから、明日へ進めます。過去の痛みは……忘れなければ仕方ないのですが……。良いことだけを思い出して、精いっぱい生きていきたいと思います。(朝日新聞7月4日付夕刊3版4面)(写真撮影=森下東樹)
posted at 12:17:55 on 07/05/08
by suga -
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