suga's blog 徒然なるままに
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元共産党副委員長の上田耕一郎氏死去

元共産党副委員長の上田耕一郎氏死去

2008年10月30日20時0分

 ロッキード事件やリクルート事件、外交・防衛問題の追及などで活躍し、論客としてならした元共産党副委員長で元参院議員の上田耕一郎(うえだ・こういちろう)さんが30日午前6時28分、慢性呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。81歳だった。葬儀は31日、親族による密葬で執り行う。共産党は「お別れの会」を後日開くとしている。

 不破哲三前議長の実兄。46年に共産党に入党し、党機関紙「赤旗」編集局長や党選挙対策局長などを歴任した。74年参院選で東京選挙区から初当選し、76年に副委員長に就任。参院議員は98年まで連続4期、副委員長は06年まで務めた。複数政党制を前提とした「民主連合政府」の提唱など、党内の柔軟・現実路線の理論的支柱とされた。

 国会を舞台に論客としても活躍した。外交・安全保障分野では、沖縄返還に伴う日米核密約、自衛隊の秘密組織などの疑惑を追及し、反響を呼んだ。「ウエコー」の愛称で親しまれ、「秀才肌の弟、人間味の兄貴」とも言われた。テレビのバラエティー番組にも積極的に出演した。

 志位委員長は30日の記者会見で「暮らしから安保・平和の問題まで、幅広く国会の予算委員会の舞台で縦横無尽の働きをされた。天衣無縫というか、本当に太陽みたいな方だった。私自身のあこがれだった」と振り返った。



共産党の理論を支えた庶民派 悼む 上田耕一郎氏

 「理論派」であり、「庶民派」--。長らく日本共産党の二つの顔を代表していた。お堅いイメージでとらえられがちな同党にあって、「ウエコーさん」という愛称には、「ミヤケン(故宮本顕治元議長)」や「フワテツ(実弟の不破哲三前議長)」とは違う、どこか温かい響きがあった。

 共産党戦後史の節目となる場面では、必ずと言っていいほど理論家としての顔を見せた。旧制一高時代に党細胞を創設。現実路線の「民主連合政府綱領」(73年)を主導し、創価学会との間で「相互不干渉」「共存」を定めた「創共協定」(74年)の秘密交渉にあたった。ロッキード事件やリクルート事件をめぐる国会論戦では、理詰めの追及で自民党を追い込んだ。60〜70年代に党勢を拡大した宮本路線の支柱の一人だった。ただ、50年代に構造改革路線に傾いたことなどから「宮本氏との関係は微妙だった」(党関係者)とも言われる。近年では、党本部ビル建設の責任者として陣頭指揮をとった。

 ウエコーさんの本領は、むしろ庶民派としての顔だったのではないか。緻密(ちみつ)で学者肌の不破氏に対して、ウエコーさんはざっくばらん。酒もたばこも好み、党内では不破氏よりも人気があった。特にバーボン好きで、「米帝国主義の象徴じゃないか」ととわれて、「違う。人類が生み出した偉大な文化だ」と語ったという逸話が残る。

 創共協定を仲立ちした作家の松本清張氏が亡くなった際に話を聞くと、「(協定の失敗は)当事者として、人が善すぎた」とあっさり語った。「いつも正しい共産党」の幹部がそんなに率直に認めていいのか、とこっちが心配になったほどだ。

 テリー伊藤氏のバラエティー番組に出演して話題に。勢いで同氏の架空小説「お笑い革命日本共産党」にも登場し、党内で物議をかもしたこともあった。だが、共産党幹部らしからぬ脇の甘さも、ウエコーさんらしかった。(中村史郎)(朝日新聞2008年10月31日付政治4面14版)



共産・上田元副委員長が死去=不破前議長の実兄

 共産党元副委員長で元参院議員の上田耕一郎(うえだ・こういちろう)氏が30日午前6時28分、慢性呼吸不全のため都内の病院で死去した。81歳だった。神奈川県茅ケ崎市出身。31日に親族だけで密葬を行い、後日「お別れ会」を開く。

 上田氏は不破哲三共産党前議長の実兄。1974年に参院東京選挙区から初当選し、4期連続で参院議員を務めた。党を代表する論客の1人として国会論戦の先頭に立ち、田中角栄元首相の金脈問題やロッキード事件、沖縄核持ち込み密約などの追及で活躍した。

 共産党では66年に中央委員に就任。党月間誌「前衛」編集長、機関紙「赤旗」編集局長などを歴任した。他党との連携を模索する「民主連合政府綱領」の取りまとめに参画し、柔軟・現実路線を主導。敵対関係にあった創価学会との和解に動き、74年の「創共協定」調印に尽力した。

 76年に党副委員長に選出され、「政界再編と日本の進路」など多数の著書を残した。98年に政界を引退した後も、2006年まで同職にとどまり、「憲法改悪反対闘争」をリードした。 (了)(2008/10/30-21:52)



日本共産党元副委員長 上田耕一郎さん死去

 日本共産党中央委員会名誉役員、元幹部会副委員長・元参議院議員の上田耕一郎さんは30日午前6時28分、慢性呼吸不全のため、都内の病院で死去しました。81歳でした。

 葬儀は、親族による密葬として31日におこなわれます。遺族は、妻高子さんと長男、長女。日本共産党前議長の不破哲三さんは、実弟です。「お別れ会」は後日おこなわれる予定です。お問い合わせなどは、東京都渋谷区千駄ケ谷4の26の7 日本共産党中央委員会(☎03・3403・6111)まで。
     ◇
 1927年3月9日、神奈川県生まれ。第一高等学校に入学。46年12月日本共産党に入党して、一高細胞を結成しました。東京大学経済学部卒業後、党東京中野地区委員などを経て、64年等中央委員会理論政策委員になりました。

 第9回党大会(64年)で中央委員候補に選出され、第10回党大会(66年)で中央委員、その後、政策委員会責任者。第11回党大会(70年)で幹部会委員、赤旗編集局長に就任しました。

 第12回党大会(73年)では「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」についての報告に立ち、この大会で常任幹部会委員。76年には幹部会副委員長に選出されました。

 この間、74年に参議院議員(東京選挙区)に当選し、以来、4期24年間、参議院議員として国会論戦の先頭に立ちました。田中角栄首相の金脈追及、それともかかわるロッキード事件や信濃川河川敷問題などとともに、安保・自衛隊問題、公団住宅・高速道路などの建設問題での論戦等々で、日本共産党を代表する”論客”として知られました。

 また、障害者問題の党議員団責任者として、障害者の要求と権利を守るために力をつくしました。この間、参院議院団長、国会議員団総会副会長を務め、また、90-91年には選挙対策局長の任にも当たりました。

 議員を退いた後も、幹部会副委員長として活動し、党本部ビル建設委員会責任者、憲法改悪反対闘争本部長などを歴任し、憲法改悪反対闘争の発展に尽力しました。

 第24回党大会(06年)で名誉役員に推された後も、憲法改悪反対闘争本部員の任にありました。



上田さんをしのんで 志位委員長が語る

 日本共産党の志位和夫委員長は、30日に国会内でおこなわれた記者会見で、記者団から上田耕一郎さんの死去について問われ、次のようにのべました。
     ◇
 まず、上田さんといいますと、やはり国会での論客としての働きというのは、すばらしいものがあったと思います。私の学生時代から、参議院議員をやっておられましたが、いろいろな追及の名場面を思い出します。

 ロッキード問題でも名場面がありましたし、リクルート問題でも名場面がありました。くらしの問題から、安保・平和の問題まで、国政の問題に本当に幅広く精通し、国会の予算委員会を舞台に、縦横無尽に論じる働きをされてきた。私たちは、学生時代から、上田さんのそうした姿にあこがれて、すばらしい力をもっている政治家だと、何度も感じたものでした。まず国会でのさっそうとした勇姿が鮮やかに思い出されます。

 しかもお人柄は、天衣無縫といいますか、本当に太陽のような方で、一緒にいるだけで、その場が明るくなるような、そういう魅力の持ち主で、そうした点でも多くの方々から愛されていた政治家だったと思います。他党の方からも、政治的な立場の違いはあっても、信頼が寄せられていたのではないかと思います。

 理論的な面でも、日本共産党にとって、綱領路線の発展、あるいは自主独立の路線の担い手として、大事な働きをされてきた大先輩です。憲法9条を守り抜くたたかいには、最後まで大きな情熱を燃やされていました。今朝、訃報を聞き、党を築いてこられた私たちの身近な大先輩が亡くなったことに、大変寂しい思いです。(「しんぶん赤旗」2008年10月31日付政治2面B版)
     
自宅は東京都国立市西2の23の31。
posted at 07:39:17 on 10/31/08 by suga - Category: Politics

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