suga's blog 徒然なるままに
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加藤周一さん死去 評論家、リベラル貫く 89歳

「日本文学史序説」「九条の会」設立 加藤周一さん死去

朝日新聞2008年12月6日0時35分

 戦後日本を代表する知識人で、和漢洋にまたがる幅広く深い教養をもとに、政治や社会、文化を縦横に論じた評論家、加藤周一(かとう・しゅういち)さんが、5日午後2時、多臓器不全のため都内の病院で死去した。89歳だった。葬儀は近親者のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は妻の矢島翠(やじま・みどり)さん。

 東京生まれで、元々は東大医学部で血液学を専攻した医師だった。が、1942年、作家の中村真一郎、福永武彦らと新しい詩の運動グループ「マチネ・ポエティク」を結成。戦後に共同出版した「1946・文学的考察」で注目される。

 58年、第2回アジア・アフリカ作家会議参加を機に医師を辞め、評論と創作活動に専念する。日本文化の雑種性を指摘した「雑種文化」や自伝「羊の歌」、共同研究「日本人の死生観」などを経て、「日本文学史序説」で80年に大佛次郎賞受賞。

 活動は国内にとどまらず、米、独、カナダなど多くの海外の大学から招かれて教壇に立ち、日本文化などを講義した。文化、芸術だけにとどまらず、常にリベラルな立場から、核問題や安保問題などの現実問題にも積極的に発言し続けた。04年には作家の大江健三郎さんらと、憲法9条を守ろうと「九条の会」を設立した。その旺盛な評論と創作活動に対し、94年、朝日賞が、00年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章が贈られた。

 また、本紙文化面に80年から「山中人かん話(さんちゅうじんかんわ、かんは門がまえに月)」、84年から「夕陽妄語(せきようもうご)」を書き継ぎ、多くのファンをもった。著書は「加藤周一著作集」(全24巻)ほか多数。

 88年4月から立命館大国際関係学部の客員教授を務め、92年5月にオープンした、戦争の記録や平和運動の資料などを展示する博物館「立命館大学国際平和ミュージアム」(京都市北区)の初代館長に就任した。



評論家・「九条の会」呼びかけ人 加藤周一さん死去

 戦後を代表する知識人として知られ、九条の会の呼びかけ人の一人として、憲法を守る運動の先頭に立った評論家で作家の加藤周一(かとう・しゅういち)さんが5日午後2時、多臓器不全のため東京都内の病院で死去しました。89歳でした。東京都出身。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開きます。喪主は妻で評論家の矢島翠(やじま・みどり)さん。

 東大医学部卒。在学中は血液学を専攻する一方で、戦時中に福永武彦、中村真一郎らと詩の運動グループ「マチネ・ポエティク」を結成し、戦後の『1946・文学的考察』(共著)で注目されました。

 その後、3年間医学留学でフランス滞在、その体験を基に帰国後、日本人を多様な視点でとらえた「日本文化の雑種性」を発表。1958年から評論、執筆活動に専念しました。

 『文学と現実』『抵抗の文学』『雑種文化』『現代ヨーロッパの精神』、自伝『羊の歌』、小説『ある晴れた日に』など数々の著作を発表。80年には『日本文学史序説』で大佛次郎賞を受賞しました。98年には初の書き下ろし戯曲「消えた版木 富永仲基異聞」を発表、前進座が公演して話題を呼びました。

 米エール大や独ベルリン自由大など海外の大学で教壇に立ったほか、上智大教授、立命館大客員教授なども務めました。

 熱心な護憲活動や平和運動でも知られ、憲法改悪の動きが強まる中、2004年には作家の大江健三郎さんらとともに「九条の会」の呼びかけ人として会の設立に尽力、その後各地で精力的に憲法擁護、とりわけ九条改定阻止のために訴えて歩きました。核兵器廃絶や日米安保などに関する発言も積極的に行いました。

 故・宮本顕治元日本共産党議長と1949年に雑誌で対談。07年に宮本氏が亡くなったときには、「宮本顕治さんは反戦によって日本人の名誉を救った」と追悼の言葉を寄せました。

 本紙には、経済学者の都留重人氏との大型対談シリーズ「転換期--世界のなかの日本」(01年)、作家の澤地久枝氏との大型対談シリーズ「戦争と日本/過去から未来へ」(03年)に登場。



作家 井上ひさしさんの話

 加藤さんは、大戦中の知見や東京大学医学調査団員として原子爆弾が落ちた広島でこの世の地獄を見た体験をもとに、戦争は人々を苦しめるものだと考え、その立ち位置は生涯、変わりませんでした。

 世の中の波動に動かされず、やがて、社会が復古調に右寄りに動いたときには、憲法を守ろうという運動の中心になりました。

 「知の巨人」であるとともに、人柄はあったかく、議論がお好きで、いい意味での青年のいちずさを持っていました。会っていてほがらかになりました。そのほがらかさは加藤さんがつねに人間の可能性を信じていたところからくるものでした。

 加藤さんが亡くなったときき、打撃を受けていますが、加藤さんの遺(のこ)されたものを、私たち下の世代が受け取り、さらに後の世代に伝えて、これからもぶれずにゆっくりとほがらかに歩いていきたいと思います。(しんぶん赤旗2008年12月07日付社会15面B版)
posted at 08:56:20 on 12/06/08 by suga - Category: Main

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