suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

ユーモア含む鋭い語法

追想 加藤周一 2 池澤夏樹(作家)

ユーモア含む鋭い語法

 いけざわ・なつき 45年生まれ。埼玉大理工学部中退。『スティル・ライフ』で芥川賞。ほかに『マシアス・ギリの失脚』(谷崎賞)、『すばらしい新世界』など。

 私的な事情から述べる。

 加藤周一さんはぼくにとってまず父福永武彦の友人であり、文学上の同志であった。戦時中から続いていた詩のグループの仲間で、ここには僕の母も入っていた。

 戦後になって、加藤さんは福永と中村真一郎さんの3人持ち寄りで『1946・文学的考察』という評論集を出して世に出た。混乱の時期で、父は私生活でもずいぶん加藤さんに助けられている。

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 1979年にその父が亡くなった時、ぼくは初めて加藤さんにお目にかかった。ぼくと父の仲は複雑で、互いに思いながら父の晩年には会うこともかなわなかった。また死後にはさまざまな問題が残された。それについて加藤さんはその都度正しい指針を示して下さった。

 それとは別にぼくは若い時から文筆家としての加藤さんに傾倒していた。『芸術論集』の中にある六世野村万蔵についての記述をきっかけに、この稀代(きだい)の狂言師に入れあげ、見られるかぎりの舞台を見てまわった時期があった。

 社会思想について言えば、父福永は政治に関する発言をしない人であったが、ぼくは中学校の学校放送で憲法の連続番組を作るくらいの政治的関心はあった。その指針として加藤周一を深く信頼していた。

 加藤さんは医者であり、科学者であった。データを集め、分析し、本質的なるものとそうでないものを峻別(しゅんべつ)し、揺るがぬ結果を出す。その方法論はぼくが大学の理工学部で学んだものと同じだった。加藤さんにとって戦後すぐ医学者としてアメリカ軍と一緒に広島で原爆の後遺症の調査をしたことは重要な体験だった。

 論争の時の加藤周一は鋭い。その理由の一つは群れないことではないかとぼくは思った。衆を頼まず、党派を作らず。これもまたぼくが見習ったところであった。いや、これはもともとの性格であったかもしれない。ぼくは学生運動に参加せず、そのかわりこの歳になっても中学生のころとあまり変わらぬ思想的ポジションを維持している。

 「夕陽妄語」がいい例だが、加藤さんには論理的に容赦なく相手を追い詰める語法とは別に、ふと湧(わ)き出る、ユーモアを含んだ、箴言(しんげん)のような言い回しがあった。例えば、『羊の歌』の中、「おそらく熱烈な愛国主義者の多くは、隣人を愛さないから、その代わりに国を愛するのである」とか。あるいは出典は忘れたが、「美は客観的である。しかし、美人は主観的である」とか。

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 あの思想の源泉はどこにあったのだろう? 一つは反戦と民主主義という思想だ。そしてそれを合理的に展開するための国際的な視野。要するに他の事例との比較による案件の客観化。

 だが、それらの基礎となったのは、普通の人間という自覚ではなかったか。人はあの孤高の加藤周一のどこが普通かと問うかもしれないが、『羊の歌』を書いた理由として「あとがき」に「私一身のいくらか現代日本人の平均にちかいことに思い到ったからである」とある。

 普遍であることと特異であることをはっきり分ける。そこからこそ普遍の思想が生まれるのではないだろうか。ぼくにとって、師としての加藤周一はまだまだ続く。(朝日新聞2009年2月12日付文化19面12版)
posted at 09:41:24 on 02/12/09 by suga - Category: Philosophy

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