suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

いつもはるかに遠い

追想 加藤周一 3 福岡伸一(青山学院大教授・分子生物学者)

いつもはるかに遠い

 ふくおか・しんいち 59年生まれ。著書に『もう牛を食べても安心か』『生物と無生物のあいだ』『できそこないの男たち』など。近く『動的平衡』が発売される。

 アンリ・ファーブルのような緻密(ちみつ)さ、ジュール・ベルヌのような飛躍、あるいは今西錦司のごとき自由な変幻さに憧(あこが)れて、はるばる京都大学に進学した私は、目の前の現実に半ば失望していた。熱力学はすでにわかっていることをわざとややこしくしていた。線形代数は操作的操作の延々たる繰り返しだった。化学は囲碁の定石を暗記することに似ていた。どれも味気のない、ひからびたものに見えた。むしろ、阪倉篤義が講じる、今昔物語の語り口に隠された秘密や米山俊直が語るレビ=ストロースの認識の旅、あるいは河合隼雄が解読するル・グウィンの物語、渡辺実が論じる伊勢物語の成立にまつわる宮廷サークルの仮説に心が躍った。

 理科系の学問は、私が解きたいと願っていた問題--それは今から思えばあまりにもナイーブな自分探しにすぎなかったが--に何の回答をも与えないように感じられた。ひそかに私は文系にあこがれ、”文転”の可能性さえ考えるようになった。

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 加藤周一の『羊の歌(正・続)』(岩波書店)を読んだのはそんなときだった。周知のとおり、加藤周一は医者の長男として生まれた。子供の頃、彼のヒーローは、日本武尊でもジークフリートでもなくダーウィンだった。自身も東大医学部に進学し医者となり、血液生化学を専門とする研究の道に入った。読み進めると、果たせるかな、私が知りたいと思っていたことについての彼の独白が記されていた。

 「私は医学の研究室で暮らしてきたにも拘(かかわ)らずではなく、まさにその故に、研究室を離れることを考えるようになった。しかし私が医を廃するに到ったのは、多忙に堪えなかったからだけではない。医学の研究は、また専門化の極端に進んだものである。(中略)しかし極端に専門化した領域では、私ひとりの人生と研究の内容との間に、どういう橋わたしをすることもできない。おそらく詩作に没頭するのとはちがうだろうし、李杜の詩の内容は、李杜の人生のほかにはなかったはずであろう。私は詩を必要としていたといえるのかもしれない」

 私は衝撃をうけた。自分の気持ちを言い当てられたからではない。これが本の最後の最後におかれていたからだった。彼は、夥(おびただ)しい本を読み、そして多くを書き、世界中を旅し、少なくない数の女性を愛したのちに、そこへたどり着いたのだ。この言葉は、重い金属の塊のようにゆらりと揺れながらもまっすぐに私の心の底に沈んだ。

 私はまだ全く何もなしてはいなかった。私は、自分が踏み出した場所に、分相応の穴を掘ろうとだけ思った。すこしずつゆっくり時間をかけて。いつかたゆまず掘り進められたその穴が十分な深度に達したとき、何らかの水脈に触れるだろう。それはファーブルの、あるいはベルヌの詩と繋(つな)がっているかもしれない。

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 加藤周一は、ずっと後になって(それは『羊の歌』が記されてから約30年を経て)、「『羊の歌』その後」を書いた。その最後には、旅の終り、と題された章が置かれている。

 「私はあるとき友人に別れた後で、ニュー・ヨークから北上する鉄道の窓際の席に坐り、ぼんやりと外の景色を眺めていた。陽はすでに暮れかけていて、木立は黒く見えた。すると突然、大きく拡(ひろ)がった森の木々の先端を、夕陽が刷くように赤く染めだした。黒い森の拡がりの上に重ねての燃えるような真紅の平面、その束の間の光景を凝視しながら、私は同時に別れてきたばかりの友人の顔を、あたかも彼女が眼の前にいるかのように鮮かに思い浮かべた。その瞬間に私は彼女の側にいた、と同時に、しかしその瞬間がたちまち過ぎ去るであろうことを、はっきりと意識していた。二度とくり返されない、かけ換えのない、瞬間の経験。その密度は長い年月の重みともつり合うだろう」

 絶え間ない消長。交換、変化を繰り返しつつ、それでいて一定の平衡が保たれているもの。それは恒常的に見えて、いずれも一回性の現象であること。そしてそれゆえにこそ価値があること。生命現象を、あるいは世界を、そのようなものとして捉(とら)えようとようやく気づいた私にとって、加藤周一はいつもはるかに遠い。(朝日新聞2009年2月14日付文化21面13版)
posted at 07:55:54 on 02/14/09 by suga - Category: Philosophy

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