suga's blog 徒然なるままに
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長谷川正安先生の逝去を悼む

憲法・平和・政治革新…/学問と実践に莫大な遺産

長谷川正安先生の逝去を悼む

森英樹

 戦後法学界をマルクス主義の見地から牽引してこられた長谷川正安氏が、13日に亡くなられた。享年86。昨秋まではお元気に研究活動や社会運動に邁進しておられたが、悪性リンパ腫との壮絶な闘病生活ののちに他界された。

 氏は、戦時下の1942年に東京商科大学(現一橋大学)に入学したが、翌年には徴兵され、あの戦争とそれをもたらした天皇制絶対主義の理不尽さを身体で体験された。辛うじて生きのび敗戦・復員とともに復学するが、この時代を生き抜いた同輩と同様、あの歴史を繰り返すまいという強い決意で学問と実践の道を選び、憲法学研究に携わることとなる。そして創設間もない名古屋大学法学部の若き助教授として49年に赴任し、37年にわたってこの大学・学部を全国有数の民主的な研究教育拠点に育てる中心となった。名大定年後は大阪経済法科大学に移り、さらにここ10年余は悠々自適の中、自身の憲法研究の体系化に取り組んでおられた。それは全3巻に及ぶ書き下ろしの大著の予定であったが、それが未完に終わったことは、学界にとっても痛恨事というほかない。

 研究者としての氏が、戦前、平野義太郎氏らによって開拓されたマルクス主義法学を批判的に継承・発展させ、戦後マルクス主義法学の確立者にして指導者であったことは、つとに知られている。この見地から氏は、専門である憲法学においては、その全分野にわたって知的発信を続け、常に新風を吹き込みつつ論争を巻き起こし、「科学としての憲法学」という確かな知的潮流をうみだし、そのリーダーとして比類のない活躍を展開した。とりわけ戦後直後に民主主義科学者協会(民科)の創設に尽力し、同協会解散後も独自に今日まで発展している民科法律部会は、3年前に亡くなられた渡辺洋三氏との名コンビで担ってこられた氏の指導的役割を抜きには語れない。

 氏はあくまでも研究者、知識人であったが、徴兵から復員・復学という原点と、そこからつかみとった科学観・学問方法論のゆえに、戦後知識人のなかでも群を抜く実践家でもあった。「憲法運動」という概念は、それまでの「護憲運動」や「憲法闘争」という概念に潜んでいた弱点を克服するために、氏が66年に提唱したものであるが、以後、社会運動の有力な一角を占める市民運動概念として定着している。その憲法運動の担い手である憲法会議を、愛知でも全国でも指導してきた役割もまた特筆に値する。憲法運動のみならず、裁判運動、科学者運動、平和運動、法律家運動、政治革新運動等々での文字通り八面六臂の活躍は、ただの政治的実践ではなく、深い研究に裏打ちされた科学的実践であった。

 氏は、生前よく「私は唯物論者だから霊魂など信じない。死んだら無に帰るだけだ」と言っておられた。しかし氏が学問と実践に残した莫大な遺産は、客観的事実である。それは、氏のように一人で担ってこれを継承することなど、とてもできない巨大さであるが、氏が生前つとに力説しておられた「人間的な社会的連帯の不可避性と必要性」の教えをあらためて想起しつつ、微力を寄せ合いながら、氏の遺志を受け継ぎ、できれば乗り越えてもいきたいと、密かに思う。(もり・ひでき 龍谷大学教授・名古屋大学名誉教授)(しんぶん赤旗2009年8月25日付学問文化9面)



憲法学者・名古屋大学名誉教授の長谷川正安さん死去

朝日新聞2009年8月13日19時20分

 戦後憲法学を開拓した憲法学者で、護憲運動に長年携わってきた名古屋大学名誉教授の長谷川正安(はせがわ・まさやす)さんが13日、心不全で死去した。86歳だった。「お別れの会」は15日午後1時から名古屋市東区大幸2の1の28の葬儀会館ティア大幸で。喪主は長男憲(けん)さん。

 マルクス主義の立場から憲法研究の道に進み、憲法解釈だけでなく憲法史や外国法との比較など、業績は広範な領域に及ぶ。57年に著した岩波新書「日本の憲法」は77年と94年に全面改訂を重ね、ロングセラーとなった。他の著書に「昭和憲法史」「憲法運動論」など。

 名古屋大法学部教授、大阪経済法科大教授を歴任。89年から10年間、世界科学者連盟の副会長を務めた。
posted at 11:47:50 on 09/04/09 by suga - Category: Philosophy

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コメント

jackpot49 wrote:

闔裙
08/07/14 14:11:57

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