suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

スティーブ・ジョブズの妹モナ・シンプソンの追悼演説:A Sister’s Eulogy for Steve Jobs


A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
BY Mona Simpson, New York Times

- in Japanese

私はシングルマザーのひとりっ子として育ちました。家は貧しく、父親はシリアからの移民だと聞いてオマール・シャリーフみたいな人を想像していたものです。お金持ちで優しくて私たちの人生 ―そしてまだ家具も揃ってないアパート― にやってきて、どうか助けてくれますように、そう願っていました。

後で父に会ってからは、電話番号を変えて郵便転送先の住所も私たちに残さなかったのはきっと父がアラブ新世界構築を企む理想に燃える革命家だからよ、そう信じようと努めました。

フェミニストながらに私は生まれてからずっと自分が愛せる男の人、自分にも愛情を注いでくれる男の人が現れるのを待っていました。それは父親だと何十年も思っていましたが、25歳のとき会ったその人は、兄でした。

そのころ私はニューヨークに引っ越して最初の小説の執筆に取り組んでいました。零細雑誌の仕事にありつき、クローゼットほどの広さしかない事務所で他の作家志望の3人と働いていました。

健康保険を買え買え上司にうるさくせっつくカリフォルニア出の中流の小娘の私のもとに、ある日、弁護士から電話がかかってきて、「依頼主はお金持ちの有名人で、長年消息が途絶えているあなたのお兄様なんですよ」と伝えたもんだから若い編集者たちはエエーッと上ヘ下への大騒ぎとなりました。それは1985年のことで、勤務先は前衛文芸誌だったのですが、まるでディケンズの小説の主人公みたいな筋書きだね、最高だねと言って、みんな狂喜乱舞したんですね。

弁護士は兄の実名を告げるのを拒みました。そこで同僚たちの間でさっそく賭けが始まりました。一番の有力候補は、ジョン・トラボルタ。

私は内心、ヘンリー・ジェイムズの文学を受け継ぐ人、誰か自分より才能のある人、頑張るまでもなく才気溢れる人だったらいいなあ、と心密かに願っていました。

いざ会ってみたらスティーブはジーンズ穿いた同年代のヤツではないですか。アラブ系かユダヤ系っぽい風貌の、オマール・シャリーフよりはハンサム君でした。

私たちは延々と散歩しました ― いざ散歩に出てみて気付いたんですが、ふたりとも散歩が大好きだったんです。

その初めて会った日に何を話したかはもうほとんど覚えていませんけど、私が友だちに選ぶタイプの人だなあ、と思ったことだけは今もはっきりと覚えています。

コンピュータの仕事をしてるんだよ、と兄は説明しました。

私はコンピュータのことはあまり詳しくありませんでした。仕事で使うのもオリベッティの手動タイプライターだったし。

そろそろ最初のコンピュータを買おうかなって思ってるのよ、「Cromemco」とかいうの、と言うと、スティーブは、それは待った方がいい、今ビョーキなぐらい美しいの作ってるところだからさ、と言いました。

あれから27年。ここではスティーブと知り合って27年の間に彼に学んだことを、年代順ではなく体の状態に応じて、フルライフ、闘病、臨終という3つの時期にわけて少しお話したいと思います。



Phase 1: His full life


スティーブは自分が好きなことに打ち込んで生きました。一生懸命。来る日も来る日も。
信じられないぐらい単純だけど、本当です。

無為の対極にある人。

一生懸命が恥ずかしいとは決して思わない人でした、結果失敗に終わっても。 スティーブぐらい頭のいい人が頑張る自分を恥ずかしいと思わないんなら、たぶん私だって恥ずかしがる必要ないよね、と思ったものです。

アップルから追放された時はさすがに辛かったようです。一度私に話していたんですが、大統領を囲んでシリコンバレーのリーダー500人が一堂に会する晩餐会にもスティーブは招かれなかったのです。

傷ついていたけど、それでも兄はNeXTに働きに出ました。毎日欠かさず。

スティーブが一番大事にするのは目先の目新しさではありません。美です。

イノベータの割にスティーブには一度惚れ込んだら驚くほどローヤルなところがあり、あるシャツが気に入ると10枚でも100枚でも注文するんですね。パロアルトの家にはたぶんこの教会にお集りいただいたみなさん全員に配れるぐらい沢山の綿の黒タートルネックがありますよ。

流行やギミックになびかず、同世代の人々を好む人でした。

彼の美の哲学を思うとき心に浮かぶのはこんな言葉です。「ファッションは今は美しくても、やがて醜く見えてしまう。アートは最初醜くとも、やがて美しくなる」

スティーブは常に「やがて美しくなるもの」を追求していました。

誤解したい人にはさせておけ、という人でした。

その(大統領を囲んでの)舞踏会に招かれなかった兄はその足で、黒のスポーツカー(同じ車の3代目か4代目)を運転してNeXTに行き、そこでチームのみんなと一緒に黙々とプラットフォームづくりに打ち込みました。後にティム・バーナーズ-リーがワールド・ワイド・ウェブのプログラムを書くことになる、その土台のプラットフォームを。

スティーブは愛のことを語ると、女の子みたいに延々しゃべってる人でした。彼にとっては愛こそが至高の美徳、神の中の神だったのです。一緒に働いた人たちの恋愛生活のその後を追っては、あれこれ気を揉んでいましたね。

お、これは女が猛ダッシュかけそうな男だな、とピピンとくると大声張り上げて、「ヘ〜イ、きみシングル? 今度うちの妹と晩飯来ない?」と誘ったものです。

ローリーン(Laurene)に出会った日に電話してきた兄のことは今も覚えてます。「美人で、本当に頭が良くて、犬飼ってんだよ。俺、彼女と結婚する」

リード(Reed)が生まれると感動の余り喋って喋って、それきり親バカが止まらなくなりました。一人ひとりの子どものためにちゃんとそばにいるパパでした。リサ(Lisa)に彼氏ができるとヤキモキし、エリン(Erin)の旅行やスカートの長さにジリジリし、イヴ(Eve)が馬を可愛がるとその周りで怪我しないかハラハラしてる、そんなパパでした。

あのリードの卒業パーティーで一緒にスローダンスを踊ったリードとスティーブの姿は、一生忘れません。

ローリーンに対するいつまでも変わらぬ愛が彼の支えでした。愛はいつでもどこでも生まれるものだ、と彼は信じていました。ことこの重要な摂理に関してスティーブは、一度も皮肉を言うこともなければ、斜に構えることもない、悲観もしなかった。あれは私も見習わなくてはならないと思って今に至っています。

自分は若くして成功した、それがために孤立した…という思いがスティーブにはありました。私が知り合って以降の兄は何かにつけ自分の周りにできたその壁を取っ払うことを念頭に物事を決めていたように思います。ロスアルトスで生まれ育った中流の男の子として兄は、ニュージャージーで生まれ育った中流の女の子と恋に落ちました。そんなふたりにとってリサ、リード、エリン、イヴを、地に足のついた普通の子として育てることは、何にもまして重要なことでした。

家ひとつとっても、アートや洗練された調度品で来る人を圧倒するような風情はありませんでした。それどころかスティーブとロー(ローリーン夫人)が一緒に暮らし始めて最初の何年間かは、確か晩ごはんも芝生で食べていたと思います。それも1種類の野菜だけ、ということもしばしばでした。ひとつの野菜をうんと食べるんです。でも、ひとつなんですね。ブロッコリならブロッコリ。旬のブロッコリをうんといただく。調理もシンプルでした。ちょうど合う、摘んだばかりの、ハーブを添えて。

若きビリオネアではあったけど、空港にはいつも自分で迎えに来てくれました。着くと、ジーンズ履いてそこに立っていたものです。

仕事中に家族が電話すると、秘書のLinettaが「パパは会議中ですよ。邪魔してきてさしあげましょうか?」と言ってくれたものです。

リードがどうしても毎年ハロウィンで魔女に化けると言ってきかないもんだから、スティーブもローリーンもエリンもイヴも全員しょうがなくウィッカ信者に化けて合わせた、ということもありましたね。

キッチン改装しようとしたらずるずる何年もかかって、その間お料理はずっとガレージのホットプレート。ピクサーのビルもちょうど同じころ建設中だったんですが、あちらはその半分の時間で完成しちゃった、ということもありました。バスルームはずっと古いままでした。でも ―この違いが肝心なところなのだけど― スティーブが見抜いた通り、あれはそもそも最初からいい家だったんです。

成功で得た富をエンジョイしなかったと言ってるんじゃないですよ。成功は大いにエンジョイしました。単にそこからゼロ何個か引いても兄は十分満足できる人だったのです。例えば私にこう話したこともあります。パロアルトの自転車屋に行くのが楽しくてしょうがない、そこで一番いい自転車買えるんだなって思うとニヤニヤしてしまうよ―。

結局あの自転車は買ってましたね。

スティーブは謙虚でした。学び続けることが好きな人でした。

違う環境で育っていたら自分は数学者になっていたかも、と言ったこともありました。大学のことを語る時は尊敬の念を込めて語り、スタンフォードのキャンパス界隈を散歩するのが何よりも好きでした(訳註:ジョブズ本人は一度もそうは言ってないが、昔を知る近所の人は「リード大学を中退したのは単に仕送りが続かなかったからじゃないかな」と地元紙に語ってる。中退後も大学の授業に潜り込んで熱心に聴講していたし、長男にはリードという母校の名前までつけた)。

最後の1年、彼はマーク・ロスコ(Mark Rothko)が絵画について書いた本を学んでいました。それまで知らなかった芸術家なのですが、将来アップル本社の壁をどんな風にしたら人々をインスパイアできるのか考えながら読んでいたようです。

スティーブは妙なことに詳しい人でした。英国産と中国産のティー・ローズの歴史を知ってるCEOなんて、他に誰もいませんよね?

兄はポケットというポケットにサプライズを仕込んでおく人でした。ローリーンとは普通では考えられないほど密な結婚生活を20年続けてきたわけですが、兄のことだからきっと自分がいなくなってからもローリーンが折に触れ見つけてくれるように、自分が愛した歌や詩の切り抜きを引き出しにこっそり忍ばせてあるはずですよ。

兄とは1日置きぐらいに話していましたが、それでもある日ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集記事に目を通していると、なんかそこに(彼が特許取得した)完璧な階段のスケッチが載ってたりするわけですよ。あれは本当に嬉しいサプライズでしたね。

4人の子どもと奥さんと、そしてここにいる私たちみんなと一緒にスティーブは、人生を大いに楽しみました。

幸せを、宝物のように慈しんで。


Phase 2: His illness


やがてスティーブは病にかかり、生活範囲がだんだんと狭まってゆきました。昔はパリの街中を歩くのが大好きで、京都に良い感じの小さな手打ち蕎麦屋を見つけては喜び、ダウンヒルのスキーを優雅にこなし、クロスカントリーもカクカク滑っていたものですが、それももうできません。

しまいには、おいしい桃を喜ぶ…といった普通の楽しみにも心動かされなくなりました。

それでもあれだけのものが奪われて尚あれだけのものが残されていた、ということの方が私にとっては驚きでしたし、それが兄の病から学んだことでもあります。

椅子を支えに再び歩けるよう練習していた姿は忘れられません。肝臓移植の後、兄は1日1回立ち上がり、椅子の背に手を投げ、その痩せこけてとても体を支え切れないような両脚を踏ん張って歩きました。椅子を押してメンフィスの病院の廊下を歩いてナースステーションまで行くと、そこでその椅子に座ってひと休みし、ターンしてまた元来た道を戻るんです。1歩1歩数えながら、毎日1歩でも多く歩けるよう少しずつ目標を上げていました。

くじけそうになるとローリーンが床に膝を突いて両目を覗き込んで、「あなたならできるわ、スティーブ」と声を掛けるんです。すると目を見開き、唇を一文字に引き結んで歩くのです。

兄は頑張りました。いつも、いつも、頑張りました。そして常にその努力の真ん中には愛がありました。ものすごく情に厚い人だったのです。

スティーブがどうしても痛みに耐えられなくなった時、あの恐怖の最中にひとつ気付いたことがあります。兄にはどうしても果たさなければならない目標があったんです。息子のリードが高校を卒業するまで、娘のエリンが京都に旅するまで、今つくってるボートが完成して進水するまではなんとしても生きたい、そう考えていました。そしてこのボートで家族を連れて世界中を旅し、老後はローリーンとそこで余生を送るんだ、と。

病に倒れても、彼の趣味、選別、判断は健在なままでした。看護婦は67人に面接してやっと気の合う相手を見つけると、その3人に全幅の信頼を置いて最後まで看取ってもらいました。Tracyさん、Arturoさん、Elhamさんの3人です。

一度しつこい肺炎に罹った時には、お医者様に何もかも禁止され、氷もダメと言われてしまいました。そのとき私たちは普通の集中治療室(I.C.U.)にいたのですが、普段は列に割り込んだり実名を名乗って特別扱い受けるのが嫌いなスティーブにしては珍しく、ちょっと特別扱いしてもらいたい、と言い出したんですね。

「スティーブ、これで十分特別扱いなのよ」と私が言うと、兄は私によりかかって言いました。「もうちょっと特別にしてもらえないかな、と思ってさ」

兄はチューブが挿管されて話せないときはメモ帳を持ってこさせて、いろいろ書き付けていました。病院のベッドでiPadを固定できるような装置をスケッチし、新しい輸液モニターやX線機器をデザインし、そんなに十分特別でもない集中治療室も自分の思う姿に描き直してみたりしてました。そして奥さんが部屋に入ってくるとそのたびに私の目の前で兄の顔にパーッと笑顔が戻るんです。

これは本当に重大な重大なことなんだ、冗談抜きで、と彼はスケッチ帳に書いて、私の方を見上げました。いいから頼む、持ってきてくれ。

何事かと思って覗いてみたらなんのことはない、お医者様の言いつけを破っていいから、氷を1個くれ、とあったのです。


Phase 3: His dying


この世に自分があとどれだけ生きていられるか、確実に知ってる人なんて誰もいません。

スティーブは最後の1年に入ってからも、調子の良い日はいろいろプロジェクトに着手し、これを必ず完成するまで見届けるよう、アップルの友人たちに約束させていました。オランダのボート職人の手元にはゴージャスなステンレス製の船体が、仕上げのウッドをはりつけるだけになって未完のまま残っています。娘は3人ともまだお嫁にも行ってません。下の2人はまだ女の子です。私の結婚式の時してくれたみたいに教会で娘の手をとって歩きたいと、どんなにか願ったでしょう。

私たちもみな ―結局最後は―  突然に死ぬのです。ストーリーの途中で。そして死んだ人の数だけストーリーは無数にあります。

何年もがんと闘って生きた人の死を「突然」と呼ぶのはあまり正確な表現ではないかもしれませんが、私たちにとって、スティーブの死は突然でした。

私が兄の死から学んだこと、それは人格とはあらゆるものの根幹にあるものだ、ということです。兄の死に様はまさに兄の生き様そのものでありました。

火曜の朝、兄から電話があって、パルアルトに急いで来るように言いました。愛しむような優しい声でしたが、まるで荷物を車に縛りつけて、もう旅の始まりに着いてしまった人のような気がしました。兄は、すまん、みんなを残して先にいってしまうなんて本当に心の底からすまん、と言いました。

お別れの挨拶を始めたので遮って、「待って、今行くわ。空港に向かうタクシーの中よ。すぐ行くからね」と言うと、「なあに、もう間に合わないかと思って今言ってるんだよ」と言いました。

駆けつけると、兄はローリーンと冗談を言い合っているところでした、一生ずっと毎日一緒に生き一緒に働いてきた相棒同志のように。子どもたちを見ると、目に鍵がかかってアンロックできなくなったようにいつまでも飽かずに見つめていました。

午後2時ぐらいまでは奥さんが抱き起こして、アップルの友人の方たちとお話をさせてあげることができました。

それからほどなくして、もう私たちがいくら話しかけても二度と目を開けてくれないことが、はっきりしました。

呼吸が変わったのです。重々しく、周到に、ある目的に向かって呼吸している感じになりました。また1歩1歩数えてる…と思いました。前より1歩でも遠くまで歩けるように、数えてる。

そのとき悟ったんです。兄は死さえも主体的に取り組んでいたのだ、と。死がスティーブに訪れたのではなく、 スティーブが死をやり遂げたのだ、と。

じゃあね、ごめん、一緒に年取るっていつも約束してたのに果たせなくて本当にごめん、と言いながら兄は、自分はもっと良い場所に行くんだよ、と私に言いきかせていました。

Fischer医師の予想では兄が明け方まで持ち堪える確率は50/50でした。

が、朝までなんとか持ち堪えました。ベッドで隣に付き添っていたローリーンは息が止まる間隔が長いとビクッと飛び起きて、私と顔を見合わせます。すると深々と喘ぎながら息を吸い込み、また呼吸を続けるんです。

やり遂げなければ。兄はこの期に及んでも毅然として、ハンサムな横顔のままでした。完璧主義者で、ロマンティストの、顔。その荒い息遣いからは、険しい旅、急峻な道、聳える高みを目指しているのが伝わってきました。

まるで山に登っている人のようでした。

が、あれだけの意志、労働意欲、強さを掻き集めて戦う最中もスティーブは最後まで、不思議を求める心、理想を信じるアーティストの心、やがて美しくなるものへの憧憬といった柔らかな感受性を失ってはいませんでした。

スティーブが残した最後の言葉は、意識を失う数時間前に発せられました。それは3度繰り返す単音節語です。

旅立つ前、スティーブは妹のPattyを見て、子どもたちをずっと長いこと見つめ、人生の伴侶ローリーンを見ると、みんなの肩の向こうを見て、最後にこう言ったのです。

「OH WOW. OH WOW. OH WOW」
posted at 21:38:37 on 11/02/11 by suga - Category: Apple & Macintosh

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