suga's blog 徒然なるままに
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宮本顕治元共産議長が死去 半世紀にわたり党を指導

宮本顕治元共産議長が死去 半世紀にわたり党を指導

 半世紀にわたって日本共産党の指導的地位にあった党名誉役員の宮本顕治元議長が18日午後2時すぎ、老衰のため都内の病院で死去した。98歳。山口県出身。葬儀・告別式、喪主などは未定。

 1931(昭和6)年、東大を卒業し共産党入党。33年に「スパイ査問事件」で特高警察に逮捕されたが、終戦までの12年間、獄中で「非転向」を貫いた。党が極左主義から転換した58年の党再建大会で書記長に就任し自主独立路線を確立。70年に委員長、82年に不破哲三氏に委員長を譲った後も議長として最高指導者の地位を維持、97年9月の党大会で一線を退いた。参院議員も務めた。

2007/07/18 16:08 【共同通信】



2007/07/18-15:52 共産・宮本元議長が死去、98歳=「平和革命路線」を追求

 戦後日本の共産主義運動を主導した日本共産党元議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため都内の病院で死去した。98歳だった。同党は不破哲三前議長を経て、志位和夫委員長による指導体制が定着しており、路線への影響はないとみられる。
 1908年、山口県光井村(現光市)生まれ。東大を卒業した31年に入党、33年に治安維持法違反容疑などで逮捕されて無期懲役の判決を受け、敗戦まで獄中で過ごした。45年の出所後、徳田球一、志賀義雄両氏らと党再建の中心的役割を担った。58年、書記長に就任、野坂参三議長とともに実権を握った。70年には新設した委員長ポストに就任、事実上の最高指導者となった。
 同党機関紙「赤旗」の部数拡大を通じた党勢拡大と各議会での議席伸長を目指す「平和革命路線」をとり、79年の衆院選では41議席を獲得した。
 対外的には66年ごろから「自主独立路線」を提唱し、旧ソ連や中国共産党との関係を絶った。91年の旧ソ連共産党解体の際は、「わが党はソ連覇権主義と戦い抜いた」と、党への批判に反論した。
 この間、82年には「秘蔵っ子」の不破氏を委員長に昇格させ、自らは議長に就任。90年には当時35歳の志位氏を書記局長に抜てきした。94年以降は入退院を繰り返し、97年の中央委総会で議事進行役を務めて以来、公の場に姿を見せなかった。同年、名誉議長に就任し事実上引退、2000年には名誉議長も退いた。
 77年から参院議員を2期務めた。【時事通信】



訃報:日本共産党元名誉議長の宮本顕治氏死去、98歳

宮本顕治・共産党元名誉議長 
 日本共産党元名誉議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため、東京都内の病院で死去した。98歳。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。
 1958年に書記長に就任し党の実権を掌握。(1)国会で多数派を形成し政権を目指す平和革命(2)外国の共産党の影響を受けない自主独立路線−−に代表される「宮本路線」(綱領路線)を推し進め、現在の共産党の基礎を築いた。1997年を境に党の活動の一線から退いた。その後、党指導部は綱領見直しなど柔軟路線を進める一方で、宮本氏が敷いた基本路線を維持している。戦前、戦後を通して日本の左翼運動の一翼を担ったカリスマだった。
 宮本氏は08年、山口県光井村(現在の光市)の肥料米穀商の長男として生まれ、旧制松山高校から東大経済学部に進んだ。東大在学中の29年に芥川龍之介を批判した「敗北の文学」で雑誌「改造」の懸賞文芸評論1等になり、以降プロレタリア文学運動の理論的担い手になった。
 共産党入党は31年。翌年、党員文学者の故宮本(旧姓中条)百合子さんと結婚、間もなく地下に潜った。33年に中央委員となったが、同年暮れにいわゆる「スパイ査問事件」で逮捕され、治安維持法違反などで終戦直後の45年10月まで、網走刑務所などで12年近い獄中生活を送った。この間、非転向を貫いた。
 戦後45年12月の第4回党大会で、再び中央委員に。徳田球一書記長(当時)らと対立し一時反主流派に身を置いたが、党再建を図る58年の第7回党大会で書記長に選出され、70年に幹部会委員長、82年に議長に就任。この間不破氏らを要職につけ、最高実力者の地位を確立した。77年から、参院議員を2期。94年6月に一過性脳虚血発作で入院してから体力の衰えが目立ち、97年9月の第21回党大会で名誉議長となり、一線を退いた。同大会直後の10月の常任幹部会に出席した後、公の場に姿を見せておらず、2000年11月の第22回党大会ではほかの名誉職と横並びの「名誉役員」となった。
 対外的には旧ソ連、中国の両共産党と距離を置く「自主独立」路線を確立。特に中国共産党とは66年、ベトナム侵略に反対する国際的な統一行動にソ連を入れるべきでないと主張する毛沢東主席(当時)に対し、訪中した宮本氏が強く反発して会談が決裂。その後、関係断絶に至ったが、不破氏が98年7月に訪中、江沢民総書記と首脳会談を行い、32年ぶりに関係を正常化した。
 国内的には、議会重視の平和革命路線をとり、民主主義に対立する「プロレタリアート独裁」の用語を党綱領から削除、「マルクス・レーニン主義」も「科学的社会主義」に置き換えた。ソ連・東欧の共産主義政権崩壊の際は「ソ連型社会主義の敗北で、日本共産党は違う」と強調、党員の動揺を抑えた。
毎日新聞 2007年7月18日 15時42分 (最終更新時間 7月18日 17時03分)



宮本顕治元共産党議長 死去

宮本氏は、明治41年、現在の山口県光市に生まれ、東京大学在学中から新進の左翼活動家として脚光を浴びました。そして、昭和6年に日本共産党に入党し、昭和8年に治安維持法違反などで逮捕されて終戦直後まで獄中生活を送りました。戦後、党活動に復帰し、路線をめぐって分裂状態にあった共産党が昭和30年に開かれた「六全協」第6回全国協議会を機に再統一されたあと、書記長に就任しました。そして、昭和45年には委員長に就任して党の最高指導者としての地位を固め、昭和57年に不破哲三氏と交代したあとも、議長として党内に大きな影響力を保っていました。しかし、平成6年6月に体調を崩し、平成9年9月に開かれた党大会では会場に姿を見せず、40年近くにわたった党の指導的な立場を退いて名誉議長に就任しました。共産党は、平成12年11月の党大会で、宮本氏をほかの幹部経験者と同格の「名誉役員」としたほか、去年1月の党大会で不破議長も退任して、志位委員長、市田書記局長が新たな指導部を率いるなど世代交代を推し進めています。このため、宮本氏の死去によっても、現在の共産党の指導部が進める路線には大きな影響はないものとみられます。7月18日 16時5分【NHK】



共産党の宮本顕治・前名誉議長が死去
2007年07月18日20時44分

 日本共産党の中央委員会議長、同幹部会委員長などを歴任し、40年近く同党の最高指導者だった宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため、東京都内の病院で死去した。98歳だった。同党が非合法とされていた戦前からの幹部で、50年代に「宮本体制」を確立。旧ソ連や中国などの社会主義国と一線を画した「自主独立」、国内での「議会主義」の路線を進め、、「少数が多数に従う」という「民主集中制」を組織原則とする共産党を築き、同党の支柱として90年代まで君臨した。

 宮本家で密葬を行うとし、共産党として参院選後に葬儀を執り行う。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。

 宮本氏は97年9月の第21回党大会を機に引退し、実権を持たない名誉議長になり、00年11月の第22回党大会で名誉役員の一人になっていた。

 宮本氏が一線を退いた後の党運営は、委員長を引き継いだ不破哲三・前議長が中心となって担ってきた。不破氏も06年に議長を勇退し、党の実務は志位和夫委員長と市田忠義書記局長に引き継がれている。

 不破氏は90年代に志位氏とともに「ソフト路線」を進めた。現在の党運営は不破氏が敷いてきた路線に沿っている。宮本氏の死去で党の政策や路線に変更は生じないものの、党にとって宮本氏の死去は大きな節目となりそうだ。

 1908(明治41)年、現在の山口県光市生まれ。東大在学中の29年、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文学」が雑誌「改造」懸賞論文の1等になって文筆活動を開始。大学卒業後の31年に共産党に入党。翌32年に作家中条百合子と結婚、33年5月には党中央委員になったが、同年12月に逮捕され、治安維持法やいわゆる「スパイ査問事件」などで有罪となり、無期懲役の判決を受けた。その後、45年10月に網走刑務所から釈放されるまで非転向を貫いた。

 戦後は、55年に指導部に復帰。58年には書記長に就任し、事実上の最高指導者となった。70年には新設された幹部会委員長となり、不破氏を書記局長に抜擢(ばってき)。82年には委員長を不破氏に譲り、議長になった。77年には参院全国区で初当選。83年には比例代表区で再選され、89年まで議席を維持した。

 宮本氏の指導下、共産党は64年には旧ソ連の「修正主義」と日本の党に対する干渉を批判して断絶。66年には文化大革命直前の中国共産党と決裂するなど、外国の共産党に対する「自主独立」路線を取った。87年の大韓航空機爆破事件について「北(朝鮮)のやったことだ」と発言。89年からの旧ソ連・東欧諸国の体制崩壊に対しては「科学的社会主義とは無縁の出来事で、こうした政権の崩壊は当然のことだ」との考えを表明した。(朝日新聞2007年7月19日付)



日本共産党元中央委員会議長 宮本顕治さん死去

 日本共産党中央委員会名誉役員で元中央委員会議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏は、18日午後2時33分、老衰のため東京都渋谷区の代々木病院で死去しました。98歳。

 喪主は長男の太郎氏。葬儀は宮本家の密葬とし、党としての葬儀は参院選後にとりおこないます。

 1908年(明治41年)山口県熊毛郡光井村(現在の光市)生まれ。愛媛県の松山高校を経て東京大学経済学部に入学。29年20歳のとき、雑誌『改造』の懸賞論文に応募した文芸評論「『敗北』の文学――芥川龍之介氏の文学について」が1等に入賞しました。

 31年5月入党。32年作家の中条百合子と結婚。33年に24歳の若さで党の中央委員になりました。同年12月、党に潜入していたスパイの手引きによって特高警察に検挙されます。

 特高警察は日本共産党の名誉を失墜させるため、さまざまな事件を仕立て上げ、デマ宣伝を繰り広げました。これにたいし、宮本氏は、獄中という困難な条件下で、日本共産党の名誉を将来にわたり守り抜くために全力をあげ、法廷では事実を解き明かして、デマ宣伝を打ち破りました。戦時下の暗黒裁判は、宮本氏にたいし、治安維持法違反を主とした無期懲役の判決を下しましたが、戦後、この判決は取り消されました。

 宮本氏は戦後すぐ党再建活動に参加、日本共産党をきわめて困難な状況に陥れたいわゆる「50年問題」では、その解決の先頭に立ちました。これはソ連のスターリンが革命直後の中国共産党の毛沢東指導部と組んで中国方式の武装闘争路線を日本共産党におしつけようとして企てた干渉作戦でした。

 この干渉のなかで党は分裂し、分裂した一方の側=徳田・野坂分派はスターリンの直接指導のもと北京に拠点をおいて、軍事方針とよばれる極左冒険主義の方針を日本に持ち込みます。徳田・野坂の分裂的行動に反対すると同時に、彼らが持ち込んだ武装闘争方針に真っ向から反対するたたかいの先頭に立ったのが宮本氏でした。

 党はこのたたかいを通して統一を回復、党綱領と自主独立の確固とした路線を確立しました。宮本氏は58年の第7回党大会で書記長に選ばれます。61年の第8回党大会まで継続審議となった綱領問題の討議を発展させるための小委員会責任者として、粘り強い論議を組織しました。

 第8回党大会で採択された綱領は、当面の革命について、世界の発達した資本主義国の共産党の間でいわば常識とされていた社会主義革命論をとらず、民主主義革命の立場を打ち出しました。綱領はまた、武装闘争方針や強力革命の路線をしりぞけ、日本の社会と政治のどんな変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざす、という立場を明らかにしました。

 60年代には、ソ連共産党と中国共産党の毛沢東派から、それぞれ日本共産党を自分たちの支配下におこうとする覇権主義的干渉を受けました。これにたいし、日本共産党は、宮本氏を先頭に大論争をおこなって、これらの干渉をはねのけました。

 国際活動では、66年、宮本氏を団長とする党代表団がベトナム、中国、北朝鮮三国を訪問。折からのアメリカのベトナム侵略に反対する国際統一行動と統一戦線を強化するために力を尽くしました。68年には、宮本氏を団長とする北朝鮮訪問団が金日成と会談し、当時国際的に問題となっていた北朝鮮から南への武力介入計画の中止を求め、同意をかちとりました。

 米ソの核戦争の危険性が増大した84年には、宮本氏を団長とする党代表団がソ連共産党代表団と会談し、不一致点はわきにおいて、核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶にかんする「共同声明」を発表しました。この共同声明が契機となって、85年2月、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」が発表されるなど、核兵器全面禁止・廃絶の主張が、世界の反核平和運動の大きな流れとなりました。

 70年幹部会委員長、82年中央委員会議長に選出されます。97年の21回大会で議長を引退、名誉議長に。2000年の22回大会から名誉役員に。宮本氏は、69歳のときに、参議院議員に初当選。以来、1989年まで2期12年務め、国会の場でも日本の民主的改革をめざすたたかいの先頭に立ちました。

 21回党大会の閉会あいさつで不破哲三委員長(当時)は、次のようにその足跡をたたえています。

 「宮本前議長が党の中央委員会に参加したのは戦前の1933年、それいらい、64年間、ほぼ3分の2世紀という長期にわたって、党の指導の先頭にたって活動してきました」

 「民主主義と平和の日本をめざす戦前の不屈の闘争に始まり、日本共産党をきわめて困難な状況におとしいれたいわゆる『50年問題』の解決、党綱領と自主独立路線の確立、諸外国の覇権主義との断固とした闘争、核兵器廃絶をめざす国際的な活動、日本の民主的な改革をめざすたたかいなど、宮本前議長がわが党とその事業のなかで果たしてきた役割と貢献は、歴史の事業として党史に明確に記録されている」

弔問・記帳は党本部で受け付け

 故・宮本顕治氏の弔問・記帳は19日から日本共産党本部のエントランスホールで受け付けます。(2007年7月19日(木)「しんぶん赤旗」)
posted at 18:18:10 on 07/18/07 by suga - Category: Politics

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