suga's blog 徒然なるままに
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国家が「平穏」守る危うさ

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◆ビラ配布有罪 国家が「平穏」守る危うさ
東京大名誉教授 奥平康弘(おくだいら やすひろ)

 このところ、日教組の集会会場の予約が取り消されたり、映画「靖国」の上映が取りやめになったりするなど、「いやな時代」の到来を予告する風潮が強まってきている。そんな中、東京都立川市の防衛省宿舎で自衛隊イラク派遣反対のビラを配った3人が住居侵入罪に問われた事件で、最高裁が11日、「ビラ配布は有罪」という2審判決を追認する判決を出した。

 1審判決は、住居侵入罪の構成要件には当たるとしながら、「ビラ配布は憲法が保障する政治的表現活動の一つ」「民主主義社会の根幹をなすもの」として、無罪とした。しかし、2審の逆転有罪判決を受けて最高裁は、「官舎の管理者の意思に反して立ち入れば、住民の私生活の平穏を侵害する」と指摘し、住居侵入罪に問うても憲法21条で保障される「表現の自由」には反しないとした。

 集合住宅で政治的なビラを配って住居侵入罪で逮捕されるなどという事件は、戦後はありえなかったことだが、最近は増えている。これまでほとんど使われなかった罪が、表現の自由を制約する道具にされている。

 判例のお墨付きを得て、今後、捜査当局が様々な活動に捜査の網を広げる結果となれば、地域の民主主義を支える議員のビラ配りなど政治活動や、ボランティアなど様々な活動を萎縮させてしまいかねない。

 ビラ配布を厳しく取り締まる底流には、「公共の福祉」「治安の維持」「住民のプライバシー」を重視すべきだという考え方がある。プライバシーを守るなどの名目で、「公共の安全」という概念が根を張ってきたともいえる。

 市民にとって、ビラ配布は、自己の見解を伝える手段として重要だ。ビラを読みたくない人は捨てればよいだけのことだ。それを一括して住居侵入罪で取り締まるのでは、言論の自由は保障されない。

 憲法の原点に立ち返れば、表現行為という精神活動の自由に対しては、公共の福祉の制約は及ばないのが原則だろう。国家が至るところで個人の生活の中に入り込んで、「治安のため」と言わずに「国民の権利を守るため」というやり方には注意が必要だ。

 市民がプライバシを守る手段を国家に委ね、平穏で小さな自分だけの世界に閉じこもって生きてゆくことを「自由」だと考えてしまうことも問題だ。基本的な自由という基盤がない社会は、非常に危うい。

 「プライバシー」がもてはやされる中、国家が枠をはめた個人の自由に安住する「庶民感覚」では、国家にとって都合がよい管理社会の方向に流されてしまうのではないか。

 日頃から政策ビラを戸別配布している全国の政治家やその支持者は、今回の判決で大きな戸惑いを受けているはずだ。民主主義が、地域という最前線から後退してしまうことを恐れる。(朝日新聞2008年4月15日付)
posted at 09:04:34 on 04/15/08 by suga - Category: Politics

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