suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

随筆についての随筆

夕陽妄語
随筆についての随筆
加藤周一

 「随筆」という言葉は、中国の古典にも見え、現代の日本語でも、しきりに用いられている。しかし、その定義は必ずしも容易ではない。作例を集めて、この全体が随筆であるというためには、例が多すぎて、到底手に負えない。

 どういう性質を備えた文章を随筆というのか、いくつかの漢語辞典や国語辞典を開いてみれば、「筆の動きに従い、自由に書いた文章」という説明、またはそれに似た説明があるが、それ以上のことはわからない。「筆の動きに従って」というのは、一種の比喩(ひゆ)にすぎず、正確には何を意味するのか不透明である。

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 そこでまず話を表現の形式に限ってみよう。世に日本の代表的な随筆とされてきた作品--たとえば『枕草子』や『徒然草』--には、加来
各章各節の間にほとんど関係がない。全巻を通しての概念の建築的構造を欠く。この欠如は、あらゆる文学的ジャンル(genres lite´raires)のなかで、日本の「随筆」を際立たせ、殊にヨーロッパのいわゆる「エッセー」との、鋭い対照を示す。

 たとえばモンテーニュの『エセー』は、各章がそれぞれの主題を追求し、展開すると同時に、各章が互いにそれぞれの目的追求の努力を支え合う。全巻はその意味で建築的であり構造的である。全巻が構造的分節化を欠く随筆との対照は著しい。

 しかし日本文芸の伝統において、建築的構造を欠くのは随筆だけではない。またたとえばある時代の「カブキ」や「黄表紙」も同じ。今そこには立ち入らないが、これを別の言葉でいえば、表現形式の構造化のみによって随筆を定義することはできない、ということになろう。

 文学的表現の内容にふれればどうなるか。内容は現実の世界内の出来事と非現実の(想像上の)世界内の出来事に、分けて考えることができる。随筆は原則として現実の出来事を扱う。出来事とそれに対する作家の反応。その内容は、想像上の戦争や恋愛を描く長編小説(roman)から随筆を鮮やかに区別する。

 しかしその内容に関するかぎり西洋のエッセーから随筆を常に鮮やかに区別するとはいえない。現実の話か、非現実の話か、それは時と場合によるだろう。必ずしも原則が守られないということもある。

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 このように「随筆」概念の定義は、表現形式からみても内容からみてもむずかしい。定義が可能なのは、表現の形式及び内容の特徴を組み合わせた場合である。すなわち「随筆」とは日本国で発達した文学的表現形式の一つで、二つの著しい特徴をもつ。第一に現実の環境に関心を集中し、空想の世界に遊ばない(一種のレアリスム)。第二に表現は概念的建築の全体ではなく、細部に向かう(茶室の美学)。

 しかし随筆の全体を貫くものが全くないわけではない。それは作者であり、文体にまであらわれる彼または彼女の個性である。『枕草子』のアフォリスムには一種の歯切れのよさがある。作者は誰であったにしても江戸っ子ではなかったが……。『玉かつま』の一節は富永仲基を紹介し評価している。徳川時代に、公然と、今日読んでも堂々として正確な評価……。そういうことの万能な面が随筆にはある。

 随筆『枕草子』を書いたのは、実に鋭い人生の観察家である。随筆『玉かつま』をつくったのは、『からおさめのうれたみごと』のデマゴーグではなく、『古事記伝』の大学者の気品である。

 私は以上のようなことを考えていた。そして今ふり返ってみて修正の必要を感じない。私はわずかばかりの事実らしきものを知り、そのことについて書いていたからだろう。その後私が知る過去の事実は変わらなかったが、同じ事実の評価は大いに変わった。

 昔は日本の伝統的造形美術において非構造的空間は最大の弱点だと考えていた。文章においてさえ随筆における強烈な説得力の欠如は、その限界だと感じた。

 同じ場に今では絵画的空間が、その二元性を介して、創造の可能性へ転化するのを見る。俳句や和歌もついに「第二芸術」ではなかった。いわんやその形式は亡(ほろ)びなかった。誰もが同じ場所へ向かって動いたのである。ホクサイの空間からクレーの空間へ、ミロの色の世界からウタマロの女の肌の宇宙へ。西洋の影響? それは深くとり込まれたときにおのずから消える、静かに消えていった「ジャポニスム」のように。

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 随筆も同じ。今私の机上には恵贈された一冊の本がある。私はそれを読み終わったところだ。なだいなだ『ふり返る勇気』(筑摩書房)。私はこの著者の古い読者である。この国の言語表現の自由も、ついに、過去をふり返るのが勇気の問題になるところまで北のか、と思う。

 去ればこそ随筆にしてエッセー、エッセーにして随筆なるこのような本は、今や文学を小説を中心として考える時代が過ぎたことを示す。随筆を含めて等価的にならぶジャンルの全体を中心として文学を考えることが、新しい時代の課題となるだろう。
(評論家)(朝日新聞2008年4月24日付朝刊13版文化34面)
posted at 13:22:45 on 04/25/08 by suga - Category: Main

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