suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

大知識人の微笑とまなざし

大知識人の微笑とまなざし 加藤周一さんのこと
大江健三郎(作家)

 大学を出て数年、小説を書く暮らしをしながら、渡辺一夫先生をお訪ねすることがあった。秋の激しい吹き降りの日、駒込のお宅から帰ろうとする私に、レインコートの奥へしまって岩波書店に届けてください、と先生が大きい封筒を渡された。都電に乗って、濡れた人たちで混(こ)んでなければ読むように、加藤周一君との対談ですから。

 入り口脇に立って読んでいると、本郷の大学前で、争っているように見えた二組の学生たちの一方が走り込んで、私は押し倒された。書店のロビーで、赤いインクのにじんだ校正刷りを点検する仏頂面の編集者の前で私はベソをかいていた。

 直後に、初めてお会いすることができた加藤さんは、私が報告した子細を先生から聞いていられる様子で、寛闊(かんかつ)な微笑を浮かべながら、奇態な動物でも見るようなまなざしを向けて来られた。

 先生の死後、外国からの永年(ながねん)の来信とそれらへの返信のフランス語による下書きをおさめた箱を、夫人に見せていただいた。カナダの外交官で日本史研究家のハーバート・ノーマンの手紙に、先生の紹介で会った若い医師加藤周一が、世界と自国の文学・芸術に豊かな見識をそなえているのみならず、現在の西欧の政治状況に精通しているのに驚いた、という一節があった。カトウが東京の新聞に書き始めれば、日本のジャーナリズムは変わるだろう。

 加藤さんにお知らせすると、不思議なものを見つけるね、という例のまなざしを向けられたが、マッカーシー旋風とその余波について話される表情は悲傷にみちていた。

 タケミツの音楽論

 武満徹の死の年の九月から一年、私はプリンストン大学で客員講師をした。長い夜はずっとCD化された武満さんの音楽を聴いているほかなかった。その様子を聞いたという音楽理論の専門家が、タケミツと心理学者ロバート・J・リフトンを囲む夕食会に出た話をしに来てくれた。

 タケミツの音楽論を魔法のように明確に通訳する日本人がいて、かれにはユーモアとウイットがあり、みんな楽しんだ。のみならずかれは、広島の被爆者を多数インタヴューして分析したリフトンに、原爆直後の現地に入り医学調査をしたことを話していた。その通訳は、と私は声を高めたものだ。加藤周一より他にはありえない!

 二年たって、私はやはり加藤さんが記憶に残る仕事をされたベルリン自由大学で、こちらは小説家の放談のような半年間の講座を持った。三人の国籍のちがう学生が、それぞれの言語の『日本文学史序説』に感銘を受けていて、しかしわかりにくいところがある、という。私が原書と対照して相談に乗る、課外授業をやってくれないか?

 楽しんで続けた後、一章でも講読してもらいたいという話になり、膨大な古典群とその時代については手も足も出ないから、と最終章「工業化の時代」を読むことにした。

 宮沢賢治、中原中也、渡辺一夫、林達夫、石川淳、小林秀雄。著者がほぼ同時代に生きることのあったこれら文学者たちへの、批判もこめられて情熱的な論述の、波状攻撃のような繰り返しが結びにいたる。

 《かくして両大戦間の西洋思想の挑戦に対する林・石川・小林の反応は、徳川時代以来の、あるいはさらにさかのぼって、平安時代以来の、日本の文化の構造を反映したといえるだろう。》

 され、われわれ後進はいま、これからどう続けるか? 私は高揚して語り、三人にも強い反応があった。

 憲法九条への思い

 四年たって、加藤さんから伝言が届き、私はひとつの地味な運動に呼び掛け人として誘われた。政治的な企てというのじゃなく、先の大戦の経験から個人的倫理規範となっている憲法九条への思いを話し合い、次の世代に伝える会、と私は受けとめた。基本として、小さな会を対等な位置でつなぐ。媒介を私らがやる。私は冬のベルリンの宿舎での高揚に背を押されるようにして参加した。

 いま七千を越えている憲法「九条の会」の、頼りになる先導者だった小田実を記念する集会で(お会いした最後)加藤さんは語られた。

 《現在、戦争は、グローバリゼーションの時代に入ったといえるでしょう。(中略)ある程度以上に広がってしまえば、もはやそれを止めることはできなくなります。そういうことを小田はよく見抜いていた。いまがどういう段階にあたるのか、かれに訊(き)くわけにいかなくなりました。われわれの責任になったわけです。われわれ自身がいい時期を選んで、持続的な抵抗を続けなくてはならない。それが、小田の志を継ぐということだと思います。》

 真の大知識人加藤周一の広さ深さをひとりで継ぐことはできないが、あの人の微笑とまなざしに引き寄せられた者らいちいちの仕方で、その志を継ぎ、みんなで統合することはできるだろう。



「北極星」が落ちた 井上ひさし(作家・劇作家)

 戦前戦中の日本にはっきりした批判を持ち、戦後は、世の中や価値観ががらがらと変わるなかで、自立した個人とそれを支える憲法を基本に、日本がやっと取り戻した希望をずっと磨いてこられた。そこに魅力と尊敬を感じていました。

 春に「九条の会」の集まりでお会いしたのが最後になりました。その時の加藤さんはもちろん、頭脳も言葉も明晰(めいせき)そのもの。「この人がいてくれれば大丈夫だ」と改めて心強く感じていたのですが……。

 加藤さんは「日本人は雑種性を生かすべきである」と書いた。種々雑多なことを盛り込んで作品を書こうとし、そのことを批判されていた私は、加藤さんのこの論にとても励まされました。それが私にとっての「加藤周一との出会い」だったような気がします。

 戦後、知識人が一斉にマルクス主義に走った時も、加藤さんは自分の立ち位置を変えなかった。雑種性を尊重してあらゆることを拒まずに受け入れ、でも、自分は動かない。北極星のような存在でした。加藤さんを見て、自分がいまどこにいるか、ずれていないかを確認してきました。

 輝き続けた知の巨星が落ちた。心のよりどころを一つなくし、大きな喪失感を覚え、混乱しています。(談)

(朝日新聞2008年12月07日付文化36面12版)
posted at 10:59:36 on 12/08/08 by suga - Category: Main

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