suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

鋭い感受性・深い洞察力

追想 加藤周一 5 一海知義(中国文学者)

鋭い感受性・深い洞察力

 いっかい・ともよし 29年生まれ。神戸大名誉教授。京都大大学院博士課程修了。著書に『陶淵明』『河上肇詩注』など多数。加藤氏との対談『漢字・漢語・漢詩』がある。

 加藤さんに初めてお目にかかったのは、二十年ほど前である。以来時々、中国の詩文について、質問の手紙をいただいた。数年前、ある座談会の席で、「ぼくは一海通信教育の生徒ですよ」と言っておられた。

 ところがこの通信教育の「先生」、十歳も年上の、学殖ゆたかな「生徒」に対して、逆にしばしば無遠慮な質問を試み、大いに知見をひろめ、知的好奇心を満足させて来た。

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 「李白と杜甫と、どちらがお好きですか」

 ある時、加藤さんにたずねた。答えは予想通りきわめて明快であった。

 「杜甫です。圧倒的に杜甫ですね」

 加藤さんは「饒舌(じょぜつ)」の人である。「なぜですか」と聞くまでもなく、その理由を説く言葉が、溢(あふ)れ出て来る。

 楽しそうに語る加藤さんの李杜比較論を、ここに紹介する紙幅がないのが残念であるが、要するに、豪放磊落(ごうほうらいらく)な李白とちがって、杜甫の詩が示す端正さ、そして時に見せるひらめきがいい、という。

 話は李杜にとどまらず、『論語』『孟子』比較論に及んだ。

 「『論語』には、時々、超人間的なひらめきがある。その魅力は、『孟子』にはないな」

 杜甫と孔子に対する、「天才的なひらめき」「超人間的なひらめき」という評語を聞いて、中国の詩に対する、また中国古典に対する、核心をつく加藤さんの鋭い感受性、そして深い洞察力を、あらためて感じた。

 私は以前から、加藤さんの文章、漢語の使用をできるだけ抑え、しかも冗長でなく明晰(めいせき)な文章を読んで、その背後に、逆に漢文の深い影響があるのではないか、と思っていた。

 そこでまた、無遠慮に質問した。

 「今でも漢文を読んでおられますか」

 「一日に一度は漢文の古典に関する本か、古典そのものを、少しでもいいから何ページか読むことを日課にしています」

 なるほど、そうだったのか、と思っていると、加藤さんはつづけていう。

 「これは漢文の勉強というよりも、日本語の水準を落とさないために必要だと思いますよ。日本語のある緊張したリズムを維持するために」

 そして、「何カ月も読まずにいると、日本語の力が落ちるのです」。

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 加藤さんの中国文化に関する知識は、きわめて広く、かつ深い。それは、哲学、思想、歴史、政治、文学、絵画、建築など、さまざまな分野にわたる。

 これまで私は、出版社に請われて、加藤さんと二度対談したことがある。いずれも、主として「ことば」をテーマとしたものだった。しかし話題は、前掲のような多彩な分野にひろがっていき、多くの知識を吸収することができた。

 加藤さんは、私が編集した『一海知義の漢詩道場』(岩波書店、2004年3月/宗代の詩人陸游の詩を読む研究会の詳細な記録)を愛読され、昨年8月、その続編が出た時には、すでに体調をくずされていたが、特別寄稿として一文を寄せていただいた。それは、私たち中国古典詩研究者に対する、はげましの言葉でもあった。

 巨(おお)きな、ほんとうに惜しい人を、亡くしてしまった。

 ◇

 連載を終わります。21日に開く加藤周一さんのお別れの会の模様を、文化面でお伝えします。(朝日新聞2009年2月19日文化23面12版)
posted at 09:27:14 on 02/19/09 by suga - Category: Philosophy

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