suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

なぜ大学はタダでなければならないか

なぜ大学タダでなければならないか 金銭になじまぬ認識・感情

白石嘉治 フランス文学者

しらいし・よしはる 61年生まれ。思想誌『VOL』編集委員。上智大学非常勤講師。共著書に『ネオリベ現代生活批判序説』(新評論)、訳書に『文明の衝突という欺瞞』(同)など。

 日本での大学への進学率は50%を超えている。他の先進諸国と同様の「過去最高」(文部科学省)の水準であり、奇妙な比較かもしれないが、いまや総選挙の投票率をしのぐ勢いである。21世紀の驚くべき現実だろう。人々は前世紀の普通選挙(ユニバーサル.エレクション)の経験をふまえて、新しい世界の展望を大学(ユニバーシティ)に託そうとしているかのようである。

例外状態を放置

 だが、投票とは違って大学の進学にはカネがかかる。とりわけ日本の金銭的な負担は突出している。授業料がおおむね無償のヨーロッパ諸国や、返還義務のない給付奨学金が充実している米国などとは比べようもない。そもそも日本学生支援機構の「奨学金」は貸与であり、実質的には教育ローンでしかない。にもかかわらず、日本政府は国際人権A規約は批准しながらその中の「高等教育の漸次的な無償化」(13条2項c)は拒みつづけ、高額な授業料と公的な給付奨学金制度の不在という例外的な状態を放置している。

 しかも、追い打ちをかけるかのように、昨年12月には、日本学生支援機構は返還滞納者を信用情報機関に通報する決定をした。いわゆる「ブラックリスト化」だが、高い授業料を課して学生を借金漬けにしながら、おそらく情報を手に入れる金融機関以外、誰も幸せにしないような事態が進行しているのである。

 それにしても、なぜ大学はタダでなければならないのだろうか? いわゆる財源は問題にならない。経済規模のより小さな諸国でも、大学の無償化は実現されているのだから。なにより理解すべきは、大学であつかう認識や感情の表現が売買できない性質のものであることだろう。それは物質的な財とは異なり、厳密には交換のロジックになじまない。われわれは商品を手放して代価を得るが、何かを語っても言葉は失われない。大学の無償制の国際的な合意を根本で支えているのは、そうした認識や感情にかかわる営為を金銭の論理によってコントロールすることへの違和感にほかならない。

 実際、今年の2月からフランス全土におよんだ大学のストライキで、その象徴となっていたのは恋愛小説の古典『クレーヴの奥方』(ラファイエット夫人)である。発端は「こんなものを読んで何の役に立つのだ」という、新自由主義的な「改革」を迫るサルコジ仏大統領の発言だった。以後、『クレーヴの奥方』は書店で平積みとなり、学生や教員はそれを手にデモや集会におもむくようになる。「改革」の金銭の論理に対峙しつつ賭けられているのは、書物をひもとき、ゆっくりとものを考え語り合うための共同性を営む権利である。

原義は協同組合

 同様の動きはフランスだけにとどまらない。「ボローニャ・プロセス」と呼ばれる新自由主義的な教育改革が進むヨーロッパは、いま「大学動乱」とでもいうべき状況にある。回帰しているのは、協同組合(ウニベルシタス)という中世以来の大学の原義である。よく生きるために、学び群れ集うこと。このプリミティブな大学への欲望に金銭のたがをはめることはできないし、日本の現状は解消されなければならない。私学に通う学生が主流であっても、授業料相当の奨学金を無条件に給付すればよいだけだろう。

 くりかえすが、財政的な観点の議論は問題にならない。大学への進学率が投票率に迫ろうとしているとき、そこに発現しているのはデモクラティックな未来への意志そのものであり、誰もそれを退けることはできないのだから。(朝日新聞2009年6月10日付夕刊文化10面3版)
posted at 07:57:14 on 06/12/09 by suga - Category: Politics

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