suga's blog 徒然なるままに
とりとめのないことを、徒然なるままに、書き留めておこうかと思います。

「恐竜」資本主義の断末魔

発言09

「恐竜」資本主義の断末魔

作家 五木寛之さん

 いつき・ひろゆき 1932年福岡県生まれ。早稲田大学中退後、編集者、ルポライター、作詞家などをへて、66年、「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞。『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞。『青春の門 筑豊編』ほかで吉川英治文学賞。主な著書に『風に吹かれて』『戒厳令の夜』『大河の一滴』など。

 いまの政治、経済の状況や社会システムの崩壊について、私が「人間の魂の大恐慌が始まっている」と語っても、それはしょせん「作家の妄想」と軽くあしらわれるのが落ちです。しかし、その筋の専門家の見方には限界があるような気がして、それを超える想像力というか、直観が作家には必要と思い、批判されてもいい、と居直って近著『人間の覚悟』(新潮新書)を書きました。

 いまの経済混乱を、麻生首相は「二、三年」、経済学者も「四、五年」かかるといっています。それは実感とは違う、納得できませんでした。(資本主義の)周期的なリフレッシュ(循環)ではない。私は「その十倍の五十年は続くのではないか」と思っています。アメリカのサブプライムローンに端を発した金融の大混乱について、日本はアメリカに責任をとれとはいえません。日本はその「共犯」の責任を負わされているからです。根底から、従来の価値観が大きく揺らいでいるのです。

 その様子を私は、「資本主義という巨大な恐竜が終焉(しゅうえん)の時期を迎え、断末魔の叫びをあげながらのたうち回っている」と比ゆ的に表現しました。日本では十年連続で自殺者が三万人を超えています。この「恐竜」の犠牲になるのは、働く者であり、地球上の弱小の動・植物です。

間違った政治

 日本のいまの政治は、間違っています。高齢者の親を病気入院させても三カ月たつと「転院してください」と追い出されます。夢と希望をもった若者たちが介護の仕事をしたい、と福祉大学・専門学校に入学し学ぶ。ところが、介護の現場では、あまりにも悲惨です。過酷な労働、収入が少なく、絶望して職場を去っていく人が後を絶たないでしょう。

 介護関係者の給与を50%くらいはアップし、特別の資格を与える、必要な長期入院・看護もできる。そのくらい、国の予算規模からしても十分可能ですし、すぐやるべきです。医療現場でも、産婦人科や小児科の医師不足も手がうたれていません。だから、「こんな国ってあるのか」と怒り、「税金なんて払いたくない」と怨嗟(おんさ)の声があがっているのです。

 そんな現実を告発し、国民の不安と怒りを新聞・テレビなどのマスコミがなぜしっかり報道しないのか。メディアの退廃は極に達しています。私もメディアの中にいる一人として忸怩(じくじ)たる思いがあります。

蟹工船の最後

 私は一九六六年に小説『艶歌』を書き、「演歌は未組織労働者のインターナショナル」だと書きました。つまり、六〇年代、総評、同盟などに入っていない「臨時工」や零細企業の労働者、未組織労働者が(大組織の)デモや集会をうらやましく見ていた。彼らはインターナショナルを歌うかわりに演歌を口ずさんでいた。

 昨年来、「派遣切り」や非正規労働者の困窮化が問題になってきました。百年前に書かれたマルクスの『資本論』の内容の正しさや賃金、剰余価値などの用語が再び浮上し、「搾取」「組織」「闘争」などの言葉が違和感なく使われ出しました。

 小林多喜二の『蟹工船』が若者に読まれ、冒頭の「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」がいまの気分にぴったりくる。しかし、できるなら最後の「彼等は、立ち上がった。--もう一度!」まで通読してほしい。河上肇『貧乏物語』、横山源之助『日本之下層社会』などもっと読まれていい著書です。

頼りは仲間の人垣

 「人間の覚悟」と私がいうのは、「判断は悲観的に、行動は楽観的に」ということです。いまの経済の大混乱を、自分の「バイアス(偏見)」のかかった期待感で見てはいけない。いまは、「鬱(うつ)の時代」です。「鬱々」という漢字が「草木が茂る」「霊気の盛んなさま」というように、今は時代の大転換の可能性のある時代なのです。明けない夜はない。コリン・ウィルソンは、「口笛を吹きながら夜を行け」と言った。感性を磨いて楽しもう、弱気にならず頑張っていきましょう、というメッセージです。

時代と「宗教」

 現在、新聞小説「親鸞」を連載中ですが、地震、凶作、内乱というひどい不安と飢えの時代に、「遊びと笑い」を忘れなかった雑草のごとき民衆を描こうと思っています。乱世という転換期には、国家とか大企業・組織はあてになりません。頼りになるのは、横のつながり、仲間の人垣です。

 蓮如らの時代は、武士も百姓も階級、身分を超えて平等に語り合い、助け合う小さな細胞のような「講」が地下茎のごとく全国にできて、講と講のネットワークで情報交換がなされ、戦国の世にまで持続しました。だから、時の権力者--信長、秀吉らがそれを嫌い、弾圧したのです。日本にも国家を超えた自主的な組織の時代があったことに注目したい。

 日本共産党の入党者が増えているそうですね。それを、一時的な僥倖(ぎょうこう)とするのではなく、必然の流れにしなければなりません。二十一世紀には、科学的社会主義(マルクス主義)の思想と政党にとって、宗教をどう扱うかが大きな課題になるでしょう。「社会主義」をかかげたソ連が崩壊したあと、ロシア正教が大きなブームになっています。

 一方で、『蟹工船』が読まれ、ドストエフスキーの作品が読まれている。(「宗教」という訳語は汚れており、「信仰」とかに換えたほうがいいと思いますが)いずれにしても、科学と宗教は、親の敵のように背を向け合うものではないのではないと考えます。

 将来、日本共産党が政権を担う時、病める時代に生きる「迷信と祈とう」とは無縁な、人間の心にかかわる宗教問題は、避けて通れないのではないでしょうか。
 聞き手 澤田勝雄/写真 縣章彦(しんぶん赤旗2009年2月22日付1、3面)
posted at 10:08:00 on 02/22/09 by suga - Category: Philosophy

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